■「天平萠ゆ」制作日誌 第32号 2011.11.17

『お知らせとお願い

 

 制作募金にご協力いただいた方に、お礼のお便りまたはDVDを発送しましたが、宛先不明で返送されてきたものがあります。募金時にお知らせいただいたごご住所から転居された方がおられましたら、事務局まで至急ご連絡くださいますようお願い申し上げます。

■「天平萠ゆ」制作日誌 第31号 2011.10.05

『天平萠ゆ』の完成

 東日本大震災」のため、編集作業が遅れておりましたが、ようやく完成にこぎつけ10月3日に完成記者会見と作品の東大寺へ贈呈式、試写会、完成披露パティ―を南大門西隣、元東大寺学園の跡地に新設された東大寺ミュジアムで、阪本監督初め、音楽を担当していただいたオカリナ奏者の宗次郎さん、語りを担当していただいた狭川宗玄長老、北河原東大寺管長はじめ橋本長老、森本長老、上野長老等、多くの塔頭の皆様のご臨席を頂き盛大に行うことが出来ました。
計画発願から足かけ5年、実撮影期間も2年にわたりました。
修二会を中心にしたものですが、1年を通じての東大寺の諸行事、日常、四季を、狭川宗玄長老の語りで綴った、今までにない切り口での編集で素晴らしい100分超の大映像詩が出来上がりました。
 皆様のご支援のおかげです。ありがとうございました。
尚、制作募金にご協力いただいた方には近々にDVDをお送りする予定ですが、この作品は現在市販を目的にはしておりません。しかし、今後、何らかの形で多くの方に鑑賞していただける機会を作っていくつもりです。
 

 

■「天平萠ゆ」制作日誌 第30号 2011.04.11

『天平萠ゆ』の完成時期についてのお知らせ

 「東日本大震災」から一ヶ月が経ちました。

 被災された皆様へ心よりお見舞いと一日も早い復興を、また犠牲になられた多くの かたがたのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
また、福島原発についても深刻な問題を抱えております。一日も早い復旧が望まれます。

皆様方には『天平萠ゆ』の制作に関しましては、ご過分なご協力および応援を賜わりまして ありがとうございます、心より御礼申し上げます。 おかげさまで『天平萠ゆ』撮影は、平成21年末から約一年間に亘り東大寺の行事や四季折々 の東大寺境内の風景等を無事撮り終えることができました。

制作日誌第29号にて掲載いたしておりますとおり、平成23年年明けからは東京のスタジオ で膨大な撮影データの編集作業に入り3月中に音入れ・最終編集チェックを経て、4月末 には皆様のお手元に『天平萠ゆ・DVD』をお届けさせていただく予定でしたが、未曾有の
「東日本大震災」の発生により、安定した電力と人手を要する作業は全て中断せざるを得ない 状況となりました。制作実行委員会・事務局といたしましては、可能な限り早期の完成を 目指しておりますが、完成時期は初秋となる見込みです。まことに申し訳ございませんが、 諸般の情勢をご理解賜りお許しいただきますようお願い申し上げます。 以  上

■「天平萠ゆ」制作日誌 第29号 2011.03.21

『東北関東大震災』が3月11日におきました。
 被災された皆様へ心よりお見舞いと一日も早い復興を、また犠牲になられた多くの かたがたのご冥福を心よりお祈り申し上げます。 東大寺二月堂の修二会の会中でもあり、12日深夜には1260回目の祈りとして修二会の 「お水取り」が行われ、お水取りの籠松明を見るために詰めかけた大勢の参拝者に向け 第220世北河原公敬管長がマイクを通じてお話されました。(これは前例のないことです。)
 『ご存知のように、未曾有の大災害が国を襲いました。皆様に三ッのお願いがございます。
亡くなられた方々の冥福をお祈りいただきたい。今、困難な状況にいられる方々へ思いを はせ、共に苦しみを感じましょう。社会復興の為に、各々が持つておられる力を尽くして 下さるようお願いします。』
 北河原管長の言葉は大勢の参拝者の胸に響いた、大勢の参拝者が手を合わせていた。 【東大寺・公式ホームページに「初夜上堂松明参拝の皆さんへ」として管長からのメツセージ が掲載されております。】

 また、3月17日・18日・19日の3日間「東大寺南大門前」にて50人程の東大寺学園 卒業生が『大震災の募金活動』を行ないました。かなりの寒さの中、この募金活動は今春 の卒業生から自発的に声があがり昨年の卒業生や在校生にも輪が広がったと聞いております。

  『天平萠ゆ』制作は今春(4月末)の完成をめざして最終段階(編集・音入れなど)に とりかかろうと準備している最中に、今回の大震災が起こりました。
 あれから10日間余り経過いたしました。 阪本監督は、自宅(東京)にて度重なる余震と計画停電による電力供給が安定しない中、 また交通事情が不安定でスタッフが集まらないところですが鋭意『天平萠ゆ』制作の編集作業 に取り掛かりつつあります。
 まだまだ不安定な状況下にありますので、予断の許すところではありません。 その後の状況については、引き続き制作日誌第30号以降にてお知らせ致します

 

 

■「天平萠ゆ」制作日誌 第28号 2011.02.12

制作日誌第28号として、「東大寺様の監修」と「雪の東大寺境内の撮影」風景をお伝え いたします。

平成23年2月10日(木)
 今年に入り、阪本監督が膨大な撮影素材を大変な労力と知力を駆使して構成・編集された ラッシュを東大寺様に観て頂き、第一回監修を受けました。 いろいろとご意見等を賜わりまして、再度構成・編集する次のステップへと進みます。

平成23年2月11日(金)
翌朝は、思いも掛けない雪模様にて早朝より阪本監督は「東大寺境内の雪景色」の撮影に 向かかいました。大仏殿・二月堂・大鐘楼など「不香の花」に飾られた東大寺は一段と 厳しさと神々しさに満ち溢れておりました。
11日は例年の「竹送り行事」をはじめ、愈々二月堂・修二会への準備へと動き始めます。

(豆知識)
   「吾背子と二人見ませば 幾許か この零る雪の 懽しからまし」 
   (寧楽の都に雪の降りしきる日、高殿に在って背の君と肩をならべ、 その雪を眺めていたならばどんなに嬉しいことであろう。)

    万葉集巻八 にある光明皇后の御歌にて、
     調べが清らかで愛情の濃やかに滞りなく流れている名歌である。
亀井勝一郎 著「大和古寺風物詩」天平の華 より

    また、「不香の花」(ふきょうのはな)とは雪の事にて香りがしない花との例えなり。

  なお、今後の進捗状況は順次「制作日誌」に掲載していきますのでお楽しみに・・・。  以  上

                                事務局 M.Y生

 

「天平萠ゆ」制作日誌 第27号 2011.01.02

制作日誌第27号として、年末・年始の撮影風景をお伝えいたします。

平成22年12月31日(金)

 クリスマス寒波から続く越年寒波のなか、大晦日の東大寺・大仏殿『観相窓からの 大仏様のお顔』と大鐘楼での『除夜の鐘』を撮影しました。

『制作日誌第3号』に昨年の年末年始の撮影風景を掲載いたしておりますので、 ご参考まで・・・。 例年との違いは、『八角燈籠』が昨秋の国立東京博物館・平成館での『東大寺大仏・ 天平の至宝』展に出展され、その後、東大寺修理所にて酸性雨保護修理の為に大仏殿
前にありません。『八角燈籠』は今年3月末まで保護修理され、4月から大仏殿前に 戻ります。 

皆様の絶大なる応援を頂きながら快調に進みました『天平萠ゆ』の撮影も今回の撮影 にて一応終了いたします。
この一年間応援・ご協力有難うございました心より御礼申し上げます。
今後の予定は、
愈々編集作業と音入れ(音楽)を行ない、東大寺様の監修を受けながら最後の制作過程を 経て、来年4月末を目処に完成する予定です。 (東大寺修二会が2月中旬から3月中旬まで厳修されますので、その間に東大寺様に
監修していただく時間の如何により、多少完成が前後することもあります。)

なお、今後の進捗状況は順次「制作日誌」に掲載していきますのでお楽しみに・・・。 以  上 事務局 M.Y生

  

「天平萠ゆ」制作日誌 第26号 2010.12.15

  制作日誌第26号として、「秋の東大寺風景・紅葉」の撮影風景をお伝えいたします。

平成22年・秋
 秋の東大寺風景として『紅葉のある景色』の撮影を11月の佳き日に撮影を行ないました。
大仏殿裏(講堂跡)・正倉院池とか大仏殿遠景の紅葉風景を撮影しました。

 

皆様の絶大なる応援を頂きながら快調に進みました『天平萠ゆ』の撮影もいよいよ大詰め にかかります。
今後の予定は、 年末大晦日の『大仏殿観相窓からの大仏様のお顔』と『大鐘楼の除夜の鐘』を再トライし、 撮影は終了いたします。
来年1月から愈々編集作業と音入れ(音楽)を行ない、東大寺様の監修を受けながら 最後の制作過程を経て、来年4月を目処に完成する予定です。
(東大寺修二会が2月中旬から3月中旬まで厳修されますので、その間に東大寺様に 監修していただく時間の如何により、多少完成が前後することもあります。)

なお、今後の進捗状況は制作日誌に掲載していきますのでお楽しみに・・・。
さて、どのようなドキュメンタリー映像詩が完成するのか?楽しみです。

「天平萠ゆ」制作日誌 第25号 2010.11.11

制作日誌第25号として、「北河原公敬管長の朝参り」と「狹川宗玄長老の勧学院講義」の 撮影風景をお伝えいたします。

平成22年11月11日(木曜日) 

 早朝6時、北河原管長の朝参り風景を撮影させて頂きました。
塔頭・中性院から二月堂・天皇殿・大仏殿へと早朝の清冽な空気の中で朝参りされる 北河原管長の尊いお姿を撮影させて頂きました。



また、午前10時30分から勧学院にて毎週木曜日に開講される狹川宗玄長老の 「八宗綱要」講義風景を撮影致しました。
午前9時半頃から勧学院に熱心な受講者が三々五々と集まり始め、午前10時過ぎには 勧学院書院に50名余りで溢れるばかりです。講義の開始には、「華厳唯心偈」を全員で唱読して講義が始まりました。

豆知識)
 「八宗綱要」(はっしゅうこうよう)とは、鎌倉時代の華厳・律・浄土宗の学僧 凝然(ぎょうねん 1240~1321年)が東大寺で勉強の後29歳の時に、南都六宗と 天台・真言宗についてまとめたもの(文永5年・1268年成立)で鎌倉時代の仏教書。

仏法が伝播した歴史を述べ、八宗の歴史や教理を解説したもので古来、初学者の入門 書とされている。 大正時代に至るまで日本では八宗を学ぶためのよく纏まった教科書とされたという。 「八宗」とは、平安時代までに日本に伝わった仏教の八つの宗旨のことで、 倶舎・成実・律・法相・三論・華厳の「南都六宗」に天台・真言を加えたもの

 

「天平萠ゆ」制作日誌 第24号 2010.10.23

制作日誌第24号として、「光明皇后1250年御遠忌法要」の撮影風景をお伝えいたします。

平成22年10月14日(木曜日) 「蜂起之儀」
 15日から始まる光明皇后1250年御遠忌法要を前に、無事を祈る「蜂起之儀」(ほうきの ぎ)がありました。古くから大きな法要の前日に僧たちが境内を巡って安全を確かめたと されています。午後4時から東大寺・大湯屋に僧兵姿の僧8人が集合し、まず「天狗社」
(辛国神社)に参拝し、法螺貝(ほらがい)を吹き鳴らして境内を練り歩きました。 その勇ましい僧兵姿を撮影させて頂きました。

平成22年10月15日(金曜日) 「開 白」
 午前9時30分 天皇殿を出発した行列は南大門から中門・大仏殿へと向かいました。 10時から大仏殿前で庭儀法要が営まれ、約一千人が参列された。 僧が花びらをかたどった散華(さんげ)を撒くのにあわせて大仏殿の屋根から無数の散華
が舞い、秋の境内を華やかに彩り、参列者から大きな歓声が上がった。 大仏殿前の舞楽台では、装束を着た楽人たちが華やかな舞楽を奉納された。
 東大寺・北河原公敬別当は、法要の趣旨を述べる表白文(ひょうはくぶん)のなかで 光明皇后を「まさに天平の慈母(じも)も称すべし」と述べられた。

 午後1時半から大仏殿前鏡池舞台にて「慶讃能」が奉納されました。 また、夜は大仏殿前庭にて「平成音声会」平原綾香・BOOM等の慶讃行事が行われた。

平成22年10月16日(土曜日) 「中 日」
 光明皇后の慈悲をしのぶ中日法要が営まれ、爽やかな秋風のなか秋篠宮ご夫妻が参列 されました。秋篠宮ご夫妻は午前10時半頃に大仏殿前にご着席なり、献花・献茶の奉仕 や南都楽所による舞楽奉納をご覧になられ、秋晴れの空のもと読経の中、焼香に立たれ
静かに手を合わせられた。

 夜は、大仏殿前庭にて歌手の「さだまさし東大寺コンサート」の慶讃行事が行われた。

 

平成22年10月17日(日曜日) 「結 願」
 本日は、法華寺厳修にて「梵網経講讃舞楽法要」を営み法要の結願を迎えた。 法華寺長老大僧正 久我高照 門跡はじめ30数名の尼僧の参列による法要が行われ ました。南都楽所の「振鉾(えんぶ)」「北庭楽(ほくていらく)」「狛桙(こまぼこ)」の 華やかな舞楽が奉納され、法華寺の久我門跡による表白を読み上げ、3日間の法要を 終えました。

 

(豆知識)
光明皇后1250年御遠記法要のしおり  より

 

 聖武天皇の皇后であった光明皇后は、天平寶字四年、聖寿六十歳で崩御されました。 後の世の人々は皇后の慈悲の御心が仏さまのようであったに違いないと称えました。 語り伝えられる物語を辿れば、光明皇后という御名に託された崇敬の念の大きさに
驚かずにおれません。
 光明皇后は淡海公藤原不比等の三女として生を享け、安宿媛・光明子と称し、やがて 天平元年、聖武天皇の皇后となられました。慈悲の心深く、千苦皆救われん事を願って 施薬院を開き薬草を施し、温室を設けては病者の垢を洗い、悲田院を置いては貧者の救済 をはかられたと伝えられ、まさに我が国社会福祉の濫觴であつたということもできます。
 また光明皇后は、聖武太上天皇七七忌に当たって、先帝の珍宝種々の翫好を東大寺盧舎那 大仏に供養されましたが、献ぜられた天平の精華は正倉院御物として伝えられ、これにより 私たちは今もなお、まのあたりに奈良時代の文化と芸術の粋に触れる事ができます。 聖武天皇は、国分寺国分尼寺の制度を整え盧舎那大仏を造顕されましたが、光明皇后は、 敬虔な御信仰と慈悲あふれる御念願によって天皇をお扶け申し上げるとともに、八世紀の 我が国の社会と文化に、信仰に満ちた願いの尊さを、至情の中に示してこられたのでは ないでしょうか。            
                                                                      華厳宗大本山 東大寺

     

 

「天平萠ゆ」制作日誌 第23号 2010.10.10

 

 制作日誌第23号として、『転 害 会』(てがいえ)の撮影風景をお伝えいたします。

平成22年10月5日(火曜日)

 爽やかな秋の朝8時から「僧形八幡神坐像」(国宝)をまつる勧進所・八幡殿にて 法要が営まれ、東大寺の僧が口伝で伝えられている「パラパラ心経」がリズミカルに 唱えられた。
法要後には、「僧形八幡神坐像」(国宝)と勧進所・阿弥陀堂の「五劫思惟(ごこう しい)阿弥陀如来坐像」(重要文化財)が特別開帳された。
 また、今年は江戸時代に大仏復興に尽力した「公慶上人坐像」(重要文化財)も公開
され、多くの参拝者が訪れました。その様子を丁寧に撮影致しました。 「公慶上人坐像」は、公慶忌(8月12日)撮影にて制作日誌(第20号)で紹介致して おります。
 また、東大寺の鎮守八幡宮(手向山八幡神社)の秋の祭礼風景も転害門から手向山八幡 神社まで撮影させて頂きました。

 特別開帳の「僧形八幡神坐像」と「公慶上人坐像」は、当日の午後には、東京国立博物館・
平成館にて10月8日から12月12日まで開催される「東大寺大仏・天平の至宝」展に 出展のために大急ぎでお送りされておりました。

(豆知識)
 国宝「僧形八幡神坐像」は、東大寺の鎮守八幡宮(現在の手向山八幡神社)の御神体で したが、明治初年の神仏分離・廃仏毀釈によって、東大寺に移されたものです。
同宮は、治承4年の平氏焼き討ちにより炎上し御神体も焼失しましたが、俊乗房重源上人 により再建され、重源上人の信頼厚き快慶に委嘱して、この神像を 新造したのです。
 一見地蔵菩薩を思わせる相好をし、肖像とみまごう程に写実的で快慶一派のすぐれた刀法 の冴えを示しています。遠山袈裟・肉身にも鮮やかな彩色を残しており、鎌倉時代に おける神像としては他に比肩するものがない秀作です。

重要文化財「五劫思惟阿弥陀如来坐像」は、阿弥陀如来の異形のひとつで、阿弥陀仏の 前身である法蔵菩薩が限りなく永い間(五劫)思惟に耽つて四十八の願を立てて大願成就 し阿弥陀仏になったという。(無量寿経) この永い間、剃髪をすることもなく座禅・思惟していたので、このような髪形になつた といいます。座禅を続けていた阿弥陀を髪が伸びた姿で表している。 「五劫思惟阿弥陀如来」の「五劫」の「劫」とは百・千・万・億・兆の上の位にて それが「五」もある永い時間(永遠)を思惟(深く考える事)されている阿弥陀様という
意味です。

  「劫」は「未来永」とか「を経る・・・」の様に使われる。
また、囲碁の「劫」(こう)のように限(きり)の付かない事をさす。 因みに「劫」の反対語は「刹那」(せつな)である。

では、 次回はいよいよクライマックスの「光明皇后1250年御遠忌法要」(10月14日から 10月17日)の撮影風景をお伝えする予定です。制作日誌(第24号)をお楽しみに。

 

 

 

「天平萠ゆ」制作日誌 第22号 2010.8.20

 制作日誌第22号として、『夏の東大寺境内の風景』『諸堂のみ仏』の撮影風景をお伝えいたします。

平成22年8月16日(月曜日)から20日(金曜日)まで

 15日の「万燈供養会」の翌日から「夏の東大寺境内の風景」と「諸堂のみ仏」を撮影
致しました。 今年の暑さは、お盆明けにもかかわらず朝晩も涼しくならず・・・。連日、朝からの猛暑のなか、阪本監督はじめ撮影スタッフが汗を拭きながら「夏の東大寺境内」「夜の大鐘楼」と貴重なる「諸堂のみ仏」を撮影させて頂きました。
 20日には、暑さのなか「狹川宗玄長老の朝参り」を撮影させて頂きました。最長老(90歳)の狹川宗玄師の矍鑠たるお姿と誠に有り難い朝参り風景が印象的でお姿は心の底に残りました。
 「夏の東大寺境内」の撮影は、大仏殿裏の講堂跡・戒壇院と・・・、撮影隊を組んでの大規模な撮影を行いました。  

では、次回の制作日誌(第23号)をお楽しみに。


「天平萠ゆ」制作日誌 第21号 2010.8.16

制作日誌第21号として、『万燈供養会』の撮影風景をお伝えいたします。

平成22年8月15日(日曜日)

 15日の夜、盂蘭盆会(うらぼんえ)に因んだ『万燈供養会』が大仏殿にて営まわれた。午後6時頃には、多くの参拝者が中門から南大門までの参道を長い列をつくり、昼間の暑さの残る中、午後7時の開門をお待ちしておられました。
  美しい夕焼けのなか、参拝者が寄進した約2500基の燈籠(とうろう)が大仏殿を幻想的に浮かびあがらせ、また大仏殿の「観相窓」も開かれ大佛様のお顔が光のなかに拝むことができました。
 午後7時に中門が開き長い列をつくりお待ちしておられた参拝者が、大仏殿に続々と入堂され僧侶による華厳経の読経が響く中、ご先祖様の霊を供養し・故人の冥福をお祈りされていました。

 

(豆知識)
『万燈供養会』は、昭和60年(1985年)より開始された先祖や故人の冥福を祈る行事で、参拝者が寄進した燈籠には「無病息災」「家内安全」など、それぞれの願い事が書かれておりました。 
  また、この日は午後8時から世界平和を祈る『奈良大文字送り火』が点火され、春日大社でも約3000基の燈籠に火をともす『中元万燈籠』が行われています。古都奈良の夏の夜をそれぞれに彩つていました。   

では、次回の制作日誌(第22号)をお楽しみに。


「天平萠ゆ」制作日誌 第20号 2010.8.12

 あいにく台風4号余波の雨の中でしたが、勧進所の公慶堂にて江戸時代に大佛及び大佛殿の復興をされた公慶上人の命日法要『公慶忌』が早朝8時より午前11時過ぎまで営まれました。
 公慶堂にて「公慶八講」上人の忌辰を迎えて、追福作善(ついふくさぜん)の論席を設けられた。雨の静かな中での読経は、時折雨の止み間の蝉の声と共に心に沁み渡ります。

(豆知識)
法華経八巻の講讃と、法華と華厳とについての八対の問答をやる八座の法要なので、「公慶八講」と呼ばれています。公慶上人(1648~1705年)については、丹後国宮津に生まれ、十三歳の時に東大寺に入寺し、式部卿公慶と称した。
  また、大仏は戦国時代(永禄十年・1567年)の三好・松永の合戦にて炎上・焼亡する。戦国時代からひき続く乱世のため、その再興は意のごとくならず、百年以上も露仏のままであった。この露坐の大仏を拝した十三歳の少年僧・公慶の心に、東大寺再興の大願を深く刻みこまれました。そののち、公慶上人は徳川幕府に大仏修理の許可を願い、「天下の仏心を集めて一仏となす」「一針一草の喜捨」と全国を勧進する。かの重源上人の時と同じく、大仏殿の再興はこの時も至難の業でした。江戸で公慶上人は幕府の力を借りようとし、幸い時の将軍・徳川綱吉と生母桂昌院の母子から多大の協力をこうむるのでした。
 このように東奔西走の勧進により、宝永六年(1709年)「大仏殿落慶供養」をおこなう事が出来ましたが、その4年前(宝永二年)に公慶上人は、「大仏殿落慶」を見ることなく江戸で五十八歳の生涯を閉じられました。現在、我々が参拝する大仏殿は、この江戸時代に再興された建物です。

 では、次回の制作日誌(第21号)をお楽しみに。

 

「天平萠ゆ」制作日誌 第19号 2010.8.08

制作日誌第19号として、『大仏お身拭い』(だいぶつおみぬぐい)の撮影風景をお伝えいたします。

平成22年8月7日(土曜日)
 早朝7時から大仏殿において『大仏のお身拭い』が行われました。大仏様に積もった塵を掃除する行事。
参加する僧侶や信者たち約150名は早朝に二月堂の湯屋で身を清め、白衣を身につけて大仏殿に集まり、午前7時から大仏の魂を抜く儀式「撥遣」(はつけん)が北河原別当により行なわれ、全員で読経をしたのちに、頭には手拭いの頬かぶり、口にはマスクをして「お身拭い」にかかる。お身拭いする各部所(頭部と肩胸・台座・蓮弁・須弥壇など)ごとに分かれて「お身拭い」が始まりました。
頭部の螺髪(らはつ)のひとつひとつまで丁寧に掃除してゆきます。
またお顔へは3本の綱を天井から吊下げてそれぞれにゴンドラ風の「モッコ」を繫いで3名の信者が大仏さまのお顔・肩・胸部と順番にお身拭いされて行きました。
 午前7時半、大仏殿への一般参詣者の入堂開始と同時に、多くのアマチユア・カメラマンが押し寄せて盛んに「お身拭い」風景を埃の舞う堂内にて撮っておられました。
 最後に大仏様に魂を戻す「開眼」が行なわれて行事は午前9時過ぎには終了しました。

(豆知識)
「大仏のお身拭い」は、かつては不定期に行なわれていたが、昭和40年以降から年に一度の恒例行事となりまして、現在に至っております。 

では、次回の制作日誌(第20号)をお楽しみに。 以  上 事務局 M.Y生

 

 
「天平萠ゆ」制作日誌 第18号 2010.8.01

平成22年7月28日(水曜日)
盛夏のなか、早朝8時から大仏殿において『解除会』法要が行われました。大仏殿前に、茅草(ちがや)でつくった大きな茅の輪(ちのわ)を設け、承仕が介添えするなか北河原別当はじめ一山の僧侶が茅の輪をくぐり、大仏殿へ入堂され『解除会』が須弥壇上にて始まりました。
『解除会』法要中に、茅の輪は大仏殿内に入れられご参拝の方々の茅の輪くぐりが行われ、
小さなお子様連れのご家族が喜んで茅の輪をくぐって健康を祈っておられました。
この法要の様子を撮影致しました。

豆知識)
「解除会」は、「けじょえ」と読んでいます。
古来よりおこなわれている、六月の晦日(みそか)の「夏越の祓い」(なごしのはらい)とか「水無月祓」(みなずきはらい)と深い関係がある仏会にて、疫病の流行を未然に防ぐために、延喜元年(901年)東大寺別当・道義律師が南都の諸大寺に呼びかけて
行い、以後恒例化したものです。
応仁の乱以後、一時中絶していたのを江戸時代に再興され現在まで続いております。直径二メートル余の大きな茅の輪をくぐり、大仏の壇上に登り解除会法則により行われる。「仁王経」の功徳により、夏越の「除病延命転禍為福」を祈ります。
茅の輪をくぐり、神事の夏越の祓いならぬ解除会は、他に例がない行事である。  

では、次回の制作日誌(第19号)をお楽しみに。
以  上

                            事務局 M.Y生

「天平萠ゆ」制作日誌 第17号 2010.7.08

制作日誌第17号として、『俊乗忌』の撮影風景をお伝えいたします。

平成22年7月5日(月曜日)

梅雨の最中のこの時期ですが、前日の雨もあがりカラリと晴れた夏の朝の清々しい中で鎌倉時代に東大寺伽藍及び大佛を復興した重源上人の命日法要『俊乗忌』が鐘楼のある丘の一角に建てられた俊乗堂にて早朝より営まれました。
この日は、俊乗房重源上人坐像(国宝)が安置されている俊乗堂内の厨子(ずし)が開かれ僧たちの静かな読経の中、多くの参拝者が手を合わせて偉業をしのんで居られました。
この法要の様子を阪本撮影監督と撮影スタッフが丹念に撮影をされていました。

(豆知識)
 平安時代末期すなわち治承四年(1180年)12月28日、平清盛の命を受けた平重衡(たいらのしげひら)の軍勢により、東大寺はじめ興福寺・元興寺の諸堂が炎上し南都焼亡
する。東大寺はわずかに法華堂、二月堂などを残すのみで大仏殿の炎上は悲しむべき出来事でした。  
 東大寺再興は危ぶまれ、手のほどこし様もなかつた時に登場したのが、もと上醍醐の僧高野山新別所にもいた俊乗房重源であつた。東大寺再興の詔が出たのは焼亡わずか半年後の翌・養和元年(1181年)6月26日で八月には俊乗房重源は綸旨にまかせ勧進状を作り、大仏の修理・大仏殿の再興を計った。俊乗房重源は、入宋三度の経験を積み、後年「支度第一俊乗房」といわれた人物です。
 計画性にとみ学僧というよりも技術者と言ってよい僧であつた。重源は宣旨を賜わり、勧進帳を作り、一輪車六輌を造って弟子たちを率いて六道諸国を勧進したという。
 再建事業は、さまざまな人々に支えられながら進められましたが、源頼朝の強力な後援がありました。元暦二年(1185年)3月、壇浦の戦いで平氏は滅亡し、長かつた源平の争いが終わりました。大仏の修理が終わり、開眼供養が営まれたのは、その5ヶ月後の
文治元年(1185年)8月28日でした。

平成22年7月3日(土曜日)6日(火曜日)

 5月連休の行楽時期に、大仏殿にて『外国参拝者のインタビュー撮影』を行いました。
このインタビュー映像(約60組)をG嬢(スペイン)とS嬢(中国)のご協力にて
翻訳作業を致しました。 
外国人が見た大仏様の感想が大変面白くて文化・歴史の違いを痛切に感じられます。

では、次回の制作日誌(第18号)をお楽しみに。

「天平萠ゆ」制作日誌 第16号 2010.6.06

 撮影の山場は越えました。東京での本格的な編集作業が続いています。

 6月に入って、奈良日日新聞(6月2日)読売新聞(6月3日夕刊全国版)に紹介記事が掲載されました。

■「天平萠ゆ」制作日誌 第15号 2010.5.29

制作日誌第15号として
「東大寺・狹川宗玄長老と法華寺・久我高照門跡との対談」と「東大寺・晋山式」の撮影風景をお伝えいたします。

平成22年5月26日(水曜日)

 法華寺・客殿の縁側にて、東大寺・狹川宗玄長老様と法華寺・久我高照門跡様が庭園の池の杜若(かきつばた)を見ながらの対談風景を撮影致しました。

 お二方様には、聖武天皇と光明皇后が信仰をともにされた美しい生涯・・・とかご夫婦の情愛、聖武天皇を支えられたであろう光明皇后の思いとは・・・。
また、光明皇后の皇后宮職に悲田と施薬の両院を設けられた事柄、そして有名な光明皇后施浴の「から風呂」の伝説などを語って頂きました。
お二方様には、それぞれ90歳・89歳のご高齢とはお見受け出来ない程のお元気なご様子で艶と張りのあるお声にて心温まるような対談風景でした。


 

 

 

5月27日(木曜日)

 東大寺にて「晋山式」の撮影を行いました。
華厳宗大本山東大寺の第二百二十世別当、華厳宗管長に就任された北河原公敬大僧正の「晋山式」が午前11時から大仏殿で営まれ、南都各寺院からの僧侶、政財界関係者が見守る中、本尊・毘盧舎那仏(大仏さま)に就任を奉告されました。
午前10時40分、北河原新管長は、金色の法衣をまとい、轅(えん)に乗って天皇殿を出発、南大門から大仏殿中門までゆつくりと練り歩き、中門にて一山の僧侶に迎えられ大仏殿へ。法要では唄(ばい)、ハス散華(さんげ)に続いて新管長から「伝燈奉告文」
(でんとうほうこくぶん)が読み上げられました。
「伝燈報告文」では、テロや宗教の争い・宗教心の欠如をはじめとする人倫の荒廃や自然環境の破壊を憂い、聖武天皇が大仏造立の勅願の「動植ことごとく栄えんと欲す」の理念を大切に天下太平を祈られ、また、1362年に焼失した七重の東塔の復興成就などを誓われた。

 


「天平萠ゆ」制作日誌 第14号 2010.5.22

 5月9日 山城普寺での対談インタビューの様子が京都新聞でとりあげられました。

「天平萠ゆ」制作日誌 第13号 2010.5.10

 制作日誌第13号として「聖武天皇祭」「山陵祭」と法華寺の「光明皇后1250年御遠忌法要」のほかゴールデンウイークのなか大仏殿参拝の外国の方々のインタビュー撮影風景をお伝えいたします。

平成22年5月2日(日曜日) 
 「聖武天皇祭」は、午前8時より聖武天皇をおまつりしている天皇殿(聖霊殿)にて論議法要が11時半まで行われました。この法要中に限り、日ごろは公開されていない天皇殿に参拝することができます。
また、午後1時から奈良県新公会堂を出発した「式衆・稚児などによる練り行列」が南大門より大仏殿へとお渡りされ、行列が大仏殿前の鏡池にさしかかる頃に鏡池特設舞楽台にて春日大社古楽保存会による舞楽が奉納されました。そして、練り行列が大仏殿到着後、「聖武天皇御遠忌法要」がとり行われました。
この法要は、天平勝宝八年(756年)56歳で崩御された聖武天皇の御遠忌法要です。
今年は鏡池・特設舞楽台にて「盧舎那大仏慶讃能」として「橋弁慶」などが奉納され自由に鑑賞できました。

(豆知識)
  行列は、先駈(さきがけ)、道楽(みちがく)を奏でる楽人・稚児(約50名)・物詣女(ものもうでおんな)及びミス奈良の人たち・聖武講役員・僧兵・会奉行(えぶぎょう)・
式衆(東大寺本山末寺の僧侶約50名、供侍・傘もち)華厳宗管長・侍僧等あわせて約300名になります。

5月3日(月曜日)
 「山陵祭」は、午前8時半に東大寺・転害門を出発された東大寺一山の僧侶が一条通りを西へ聖武天皇をまつる佐保御陵に参拝されました。
 佐保御陵では、まず聖武天皇陵にて法要されたのちに御陵内の光明皇后陵を参拝された。
 再び一条通りを東へ大仏殿に戻つて午前11時から裏千家による献茶式が行われました。

5月6日(木曜日)
  法華寺での「光明皇后1250年御遠忌法要」に東大寺一山の僧侶が出仕し厳修されるのを撮影致しました。
午前10時、法華寺に稚児行列を伴い東大寺から約20人の僧侶が出仕され、舞楽奉納・献茶・献花などののち、北河原公敬別当が本尊・十一面観音立像(国宝)や光明皇后の肖像画を前に光明皇后をたたえる表白文を誦読し、すべての動植物が栄えることを祈られた。
 法華寺での「光明皇后1250年御遠忌法要」は6日から8日まで厳修されました。

 

5月5日(水曜日)8日(土曜日)
 5日・8日の両日は、午前10時から午後3時まで大仏殿前の八角燈籠付近にて大仏殿参拝の外国からの観光客に対して、インタビュー撮影を行いました。
延べ80人の外国観光者(アメリカ・フランス・オーストラリア・イスラエル・スイス・イタリア・スペイン・中国・台湾・韓国)の方々にインタビューしました。
 インタビュアーは、京都大学の留学生のィレネ嬢(スペイン)とソン嬢(中国)にご協力きました。それぞれに、観光客のお国柄が良く出た楽しいインタビューになりました。

 

 では、次回の制作日誌(第14号)をお楽しみに。以  上 事務局 M.Y生


「天平萠ゆ」制作日誌 第12号 2010.4.9

制作日誌第12号として
「東大寺の桜風景」と「仏生会」(ぶつしょうえ)の撮影風景をお伝えいたします。

平成22年4月5日(月曜日)から4月7日(水曜日)は、
東大寺の四季折々の風景として「東大寺の桜風景」を東大寺のご許可を頂きながら、 趣向を凝らして撮影致しました。

 今迄、目にふれた事のない様な「東大寺の桜風景」を阪本監督は丹念に心を込めて撮影 されておりました。さてさて、どの様な映像が見られるか・・・楽しみです。

 「修二会(お水取り)」が満行を迎えて一拠に暖かな春を迎えると思っていましたが、 今年の春は、寒暖の振れが激しく暖かい日と冷え込む日が交互にて、桜の開花状況との 駆け引きを楽しみながらの撮影でした。
お蔭様で、桜は満開状態にて撮影を行う事が出来ました。 

4月8日(木曜日)
早朝から大仏殿にて、「仏生会」(ぶつしょうえ)の撮影を行いました。

 午前8時から大仏殿にて「仏生会」の法要がおこなわれ、また、大仏殿正面には 「花御堂」といういろいろな花で飾った小堂を設け、これに金銅製の釈迦誕生仏の像を 潅仏盤と呼ぶ水盤上に安置し、その頭上から僧侶や参詣者が竹の柄杓(ひしゃく)で
甘茶を注ぎます。また傍らでは、参拝者は甘茶を頂くこともできました。
子供たちの歓声に包まれての和やかな雰囲気のなかで、参拝者は甘茶をかけ拝んで 居られました。頂いた甘茶は、本当に甘くて美味しかったです。

(豆知識)
釈迦誕生の日とされる四月八日に、その降誕を祝って仏生会(ぶつしょうえ)を行う。 法要は、惣礼の後、唄(ばい)・散華(さんげ)が唱和され、散華二段で散華衆が壇上を 行道する。散華が終わると導師が表白を読誦します。
また、誕生仏に甘茶を注ぐことについては、生まれたばかりのお釈迦様の体に、九頭の 龍が天から清浄の水を吐きそそいで産湯をつかわせたとか、竜王がお釈迦様の誕生を 祝って甘露の雨を降らせたという伝説に因んだものと思われます。

では、次回の制作日誌(第13号)をお楽しみに。

 

「天平萠ゆ」制作日誌 第11号 2010.3.28

 天平萠ゆ』のメインテーマでもあります東大寺「修二会」撮影は、2月18日の「油量り」 (修二会の事始め)から2月20日「試別火」・25日「総別火」そして3月1日の本行 「開白」に始まり、5日「実忠忌」・7日「小観音出御」(こかんのんしゅつぎょ)・12日 (13日未明) 「お水取り」・3月14日(15日未明)「結願・満行」までの間、たくさんな行法 - 「大導師作法(諷誦文)」「咒師作法(四天勧請)」「法華懺法」「神名帳・過去帳」「走り」 「五体投地」「香水授与」「牛玉札・陀羅尼札刷」「例時作法」「数取懺悔」等そして「達陀」 - がありました(順不同にてゴメンなさい)。これら全てを阪本監督が撮り終えました。
 「行法を解説するのではなく、修二会の厳しい行法・堂内の空気感と1259年も続いている 行法を支える参籠衆(練行衆・三役・童子・仲間)の思いを表現出来れば・・・・・」 との阪本監督の思いです。映画ではなく「映像詩」とした所以です。
 撮影期間中は、数多くの方々との出会いと御指導・ご配慮を頂きながら無事「修二会」撮影 は終えました。
   関係されたすべての方々に感謝・御礼申し上げます。
  『天平萠ゆ』撮影は、緒についたばかりで今秋まで続きます。今後とも宜しくご支援・ご協 力の程お願い申し上げます。

  次回の予定は、東大寺の桜風景および4月8日「仏生会」の撮影です。                     事務局 M.Y 生                                

 

 

 

「天平萠ゆ」制作日誌 第10号 2010.3.25

  制作日誌第10号として天平勝宝四年(752年)、実忠和尚(じつちゅかしょう)が創始して以来、一度も  途切れることなく続けられてきた「不退の行法(ぎょうぽう)」にて今年で1259回目の 東大寺二月堂「修二会」(しゅにえ)の本行風景をお伝えいたします。

 

平成22年3月1日(月曜日)
 「修二会」は、午前一時頃からの「授戒」(じゅかい)「一徳火」(いっとくび) 「開白法要」(かいはくほうよう)から二週間にわたる大行事の開幕です。
行事の軸となるこの法要は「悔過作法(けかさほう)」と称され、時導師をリーダー として、全員が懺悔と祈りの心を本尊に披歴するもので、本尊を讃嘆し懺悔や祈りの 言葉を唱え、礼拝したり行道(ぎょうどう)したり、五体人(ごたいにん)と呼ばれる
  当役が礼堂の五体板(ごたいのいた)に身を打ちつけるなどして、その心を表現する。 悔過作法を軸とする法会を「悔過会(けかえ)」と称するゆえんである。
二月堂の悔過法要は、毎日六回ずつ「日中(につちゅう)・日没(にちもつ)・初夜 (しょや)・半夜(はんや)・後夜(ごや)・晨朝(じんじょう)」勤修されるので「六時の 勤行」(ろくじのごんぎょう)とも称される。

 修二会と言えば「お松明」(おたいまつ)ですが、毎晩午後7時の「初夜」(しょや)に 練行衆が燃えさかる上堂松明に先導されて一人ずつ上堂する。
  この上堂松明(じょうどうたいまつ)を一般的に「お松明」と呼んでおります。 初夜上堂は、毎晩午後7時ですが3月12日の「籠松明」(かごたいまつ)は午後7時半 に上堂します。「籠松明上堂」は、籠松明に点火されると担当の童子がゆらりと担ぎ上げ、 一歩一歩踏みしめるようにして二月堂への石段を登っていきます。杉葉が燃えてはじける 音と香りを残しながら、炎は次第に高く赤々と輝き、登廊の天井を焦がさんばかりに 燃えさかる。登廊から回廊伝いに正面の舞台に来ると、欄干を枕にしてグイと突き出し、ごろごろと回転させる。巨大な火の玉となった松明が頭(かしら)を振りたてると、火の 粉がサァーッと流れ、炎が身を捩るように立ちのぼる。感嘆のどよめきが波のように 湧き立つ。11本の籠松明が上り終るまでに一時間近い時間がかかります。
  壮大華麗なこの籠松明の上堂も、実は練行衆上堂の道を浄め照らす先導の松明に過ぎず、 連日の「初夜上堂」と変わらないのですが、常の上堂松明に倍して大きく華やかなため、 際立って人目を誘つています。
  また、3月14日の「初夜上堂」は常より30分早い午後6時半から上堂松明があります。 結願の作法が盛り沢山なためです。手順は常と変らないのですが、前の人の後を追うよう に次々と上堂するので、あっという間に済んでしまいます。松明の火が、先に上堂する 練行衆の尻を焦がすほどに接近して上るので、「尻焦がし」「尻付け松明」と称します。
この日の松明は、正面の舞台にて10本の「松明勢揃い」します。 
  今回は、「松明」についてお話ししました。
 (参考資料は、二月堂修二会・行事次第です。) 事務局  M.Y 

                              

 

 

 

「天平萠ゆ」制作日誌 第9号 2010.3.24

 制作日誌第9号として「修二会」(しゅにえ)の前行(別火)の撮影風景をお伝えいたします.

 

平成22年2月23日(火曜日)
「花拵え」(はなこしらえ)「燈心揃え」(とうしんそろえ)

 修二会では、仏前の供華(くげ)に造花を用いる。その造花と各種の燈明に用いる 燈明に用いる燈心の準備をする。
椿の造花は、紅と白の仙花紙で花びらを、黄色の傘紙で蘂(しべ)を作る。
花びらを五枚、紅白とり合わせて張りつけてる。数は四〇〇個。南天は、赤や黄の実を 一房、青竹の串に差し込んで、紙縒(こより)で結びとめる。数は五〇本。
「燈心揃え」は、必要な長さと必要な数に切り分けて、使用目的ごとに半紙でくくり、 燈心箱の引出しに、種類別に納める。
  燈明の種類は、常燈、御厨子・曼荼羅、中燈・四角、円燈・神名帳、神燈、走り、 生(いけ)、牛(うし)、牛玉(ごおう)などで修二会行法の使用目的別に揃える。

2月25日(木曜日)

 明日の「総別火入り」の準備として「席定め」「社参」「暇乞い」がおこなわれました。

2月27日(土曜日)

 9時半より「椿の花付け」がおこなわれました。
  23日の花拵え(はなこしらえ)で作った椿の造花を、椿の木に付ける。
堂司と平衆全員が別火坊内の千手堂の縁側に集まり、大小二十本の椿の枝先に、造花の 芯を挿して付ける。

2月28日(日曜日)
 「修二会」は1日、本行入りする。
参籠する11人の練行衆は15時過ぎに別火坊を出発し、二月堂下の「参籠宿所入り」を する。参籠宿所前では、娑婆古練(しゃばこれん)が待受け挨拶をおこなう。

 日が暮れた18時過ぎ 「大中臣祓」(おおなかとみのはらえ)がおこなわれた。
二月堂下の細殿に全員が並び、密教的な作法をつかさどる咒師(しゅし)が松明の火に 照らされながら御幣を大きく振り練行衆を祓い清めた。二月堂周辺が少しずつ張り詰めた 空気に包まれて行きました

 

 

「天平萠ゆ」制作日誌 第8号 2010.3.24

 制作日誌第8号として「修二会」(しゅにえ)の前行(別火)の撮影風景をお伝えいたします

平成22年2月19日(金曜日)
  早朝より別火坊の玄関にて「注連縄縫い」「箒作り」が行われました。
童子の参籠経験者が二月堂周辺の結界の注連縄(しめなわ)や御輿洗い(みこしあらい) に使用する箒(ほうき)を作ります。数多くの注連や箒を早朝より午後2時過ぎまで かかつて作りました

 

2月20日(土曜日)
  正午過ぎから「練行衆の荷運び」が童子達によりおこなわれました。
練行衆の自坊から参籠に必要な法具・寝具・衣類などを別火坊に運びます。 13時より手向山八幡宮司が別火坊を訪れ、台所と浴室で祝詞(のりと)を唱え、 修祓(しゅうふつ)がおこなわれました。

 18時半から19時頃 「練行衆試別火入り」(ころべつかいり)
練行衆が三々五々、別火坊に集まります。いよいよ「修二会」の前行が始まります。

 

2月21日(日曜日)
  早朝(8時)より二月堂の「内陣掃除・御輿洗い」(みこしあらい)が行われます。
堂司以下平衆にて内陣の掃除と小観音の御厨子(おずし)を礼堂に安置し、丁寧に 拭い清めた後、内陣裏正面に安置する。これを「御輿洗い」と称する。

 13時 「社参」
  練行衆全員(11名)が別火坊を出発、和上(わじょう)を先頭に一列になって 八幡殿、大仏殿、天皇殿、開山堂を巡拝して参籠中の無事を祈ります。 この後「試みの湯」がおこなわれました。

 14時 「注連撒き」(しめまき)
堂童子が湯屋童子に輪注連を持たせ、遠敷社(おにゅしゃ)と飯道社(いいみちしゃ) の石段の途中から下に待つ童子たちに15筋の注連を撒く。童子たちは争ってこれを 受け止める。この輪注連を童子たちが練行衆の自坊に出向き、それぞれ門口に輪注連
を掛ける。 続いて、「結界の注連張り」が堂童子の指図にて湯屋童子が二月堂周辺の要所要所に 注連を張り、会中の結界をする。

 

 

 

「天平萠ゆ」制作日誌 第7号 2010.3.22

  制作日誌第7号として「修二会」(しゅにえ)の前行(別火)の撮影風景をお伝えいたします。

平成22年2月18日(木曜日) 午前10時から二月堂礼堂・南出仕口で『油量り』を撮影いたしました。

3月1日から始まる修二会(お水取り)の本行で使う燈明(とうみょう)のための油を 用意する『油量り』があつた。昔から決まっている量だけの油を専用の壺に移し替える 作法です。

油は一斗(約18リツトル)入りの缶から一度木製の桶(おけ)に移された 後、使い込まれた黒ずんだ壺に注がれる。壺は三つあり、一斗・一斗二升・一斗三升の 油が入れられ堂司が監督確認の上で封印されて堂内に運ばれた。本行に入ってから必要に 応じて順次内陣に取り入れて燈明として使用されます。

(こぼれ話)

今年の燈明油(白絞油・しらしめ)は「良質にて煤が少ない。」と後日、本行中に練行衆 が仰言っていましたが、その紙衣(かみこ)は随分と煤で黒くなつていました。 一斗缶には、『宮内庁御用・御燈明油』と明記されていました。 以上、油だけにこぼれ話と油を売ってしまいました。

事務局 M.Y生

■「天平萠ゆ」制作日誌 番外 2010.3.6

  3月1日からお水取りは本行に入っています。撮影もそれにともなって毎日毎夜二月堂に詰めて精力的に行っています。

  撮影のサポートのため、事務局も原稿を書く余裕は無いほどの忙しい日々を過ごしています。撮影現場の厳しさを目の当たりにした臨場感あふれる報告をしたいのですが、一段落するまでお待ちください。代わりに産経新聞が報道してくれました。 すでに数社のマスコミ取材を受けています。適宜掲載されることと思います。 奈良新聞 2010.3.9掲載

 尚、撮影隊は午後3時ごろから、毎日現場にいます。「天平萠ゆ」制作スタッフの許可証を付けていますので、気付かれた方はお声をおかけください。

 

「天平萠ゆ」制作日誌 第6号 2010.2.18

 制作日誌第6号として、「伊賀一ノ井松明講の松明調製行事」「山城松明講の竹送り行事」の撮影風景をお伝えします。

 東大寺「修二会・お水取り」は、二月堂を中心とした観音講の人々の信仰によって支えられています。

その圓玄講社の内でも鎌倉時代から続いている「伊賀一ノ井松明講」を三重県名張市に訪ねました。
平成22年2月11日(建国記念の日)、冷たい雨模様の中「伊賀一ノ井松明講の松明調進行事」が行われました。名張市赤目一ノ井・極楽寺の約1Km南にある檜山(松明山:この山は極楽寺の所有山で松明材専用山になっています。)へ早朝8時に極楽寺の住職をはじめ講長と松明衆が入り、伐木する檜に住職(泉俊善師)が「木霊供養」の読経をし、ナタ入れをして伐り出します。
  檜木はふしの無い一抱えもある太さの良質を選びます。今年の檜は講長(福本健一氏)のお話では樹齢約120年だとお聞きしました。
伐木したのち、その場で約2m程度に切りだした丸太を講員47名はじめ名張「春を呼ぶ会」メンバーと今年初参加の名張高校のサツカー部・柔道部の猛者連25名が担いで、極楽寺までの山道を運搬しました。 
注連縄(しめなわ)が張られた極楽寺境内で泉住職が「松明法要」を行ったのち、講員・春を呼ぶ会メンバーを中心に松明調製を行いました。
  まず、檜の皮をむき、一尺2寸(36.3cm)の長さの楔形の板にし、それを6~7本で一把とし、7~8把を組合せて一束とします。7把の組合せ10束と8把の組合せ10束の合計20束をつくります。ここまでが本日の工程で、檜のよい香りに包まれての作業でした。この後の予定は次の通りです。
  3月10日、道観塚「松明調進法要」には、この7把と8把を2mの青竹の両端に括りつけ、これを一荷とし全部で五荷作ります。
3月12日朝6時に極楽寺を出発した「松明調進」(松明送り)は午後には東大寺二月堂に到着し、この五荷の松明木を東大寺二月堂に奉納いたします。
  「伊賀一ノ井松明講」より寄進奉納された檜松明は整調され、綺麗に丸みを帯びた『達陀松明』になります。
(豆知識)
「鎌倉時代(宝治三年・1249年)のこと、東大寺僧侶で荘官として赴任していた聖玄が「続松(たいまつ)千二百把料田」として二月堂に寄進する。
これが名張からの松明寄進に関する最も古い記録であり、今年で761回目の松明寄進である。
 また、「道観長者の伝説」も松明寄進の始まりとして有名な話で、「松明調進行事」は、三重県指定文化財および名張市無形民俗文化財にそれぞれ指定されている。
                            (事務局 M.Y生)

 東大寺二月堂の行事「お水取り」の松明に用いられる真竹が2月11日、京都府京田辺市の普賢寺にて「山城松明講の竹送り行事」として東大寺二月堂に送られました。
  普賢寺での山城松明講の撮影は、1月31日に引き続き2回目です。

未だ暗い午前6時前に、普賢寺の南300Mの「竹起こし」の竹林に到着しました。既に前日に竹起こしの準備はされておりました。 8時前、静かな竹林の時間が俄かに動き出し、「東大寺二月堂」と染め抜いた揃いの法被の講社の人々、地元京田辺のボランティアの方々、そして子供達の「おはようございます」の元気な声に、一気に「竹送りの行事」が盛り上がります。
  掘り起こしたばかりの3本の根付きの寄進竹は、細い山路を講社の方々に担がれて賑やかな行列になり普賢寺に到着しました。この頃から厚い雨雲から冷たい雨が・・・。
午前9時からは普賢寺・大御堂観音寺境内にて合計八本の寄進竹を前に住職の三神栄弘師による「竹送りの道中安全祈願」の御祈祷が行われました。八本の寄進竹には「奉納・二月堂」
と「祈願文」が墨書されていました。そして、可愛い地元のキャラクター「キララちゃん」やお子様たちに見送られて、重い根付きの真竹はトラックに載せられ午前9時30分に、同寺から東大寺二月堂にむけて出発しました。
  午前10時30分には、奈良坂に到着し、旧・奈良街道を人の肩と大八車にて寄進竹は運ばれます。この頃には、滋賀県甲賀市の「江州一心講」の籠松明に必要な轡蔓(クツワつる)の寄進も
合流しての行列になります。真竹八本のうち三本は一本ずつ肩に担ぎ、残りの五本は大八車に載せて二月堂まで運ばれます。転害門では、地元「奈良街道まちつくり」の和太鼓・宝亀殿の勇壮な太鼓演奏による出迎えとお茶・ぜんざいの接待を受け、いよいよ東大寺南大門を経て無事に二月堂へ寄進奉納されました。
  これら「竹送り行事」を阪本監督と撮影スタッフが雨中ながら余すことなく撮影することができました。

(豆知識)
  お水取りの松明となる真竹は古来、南山城地区などから奉納されいたが、時代と共に
風習は廃れてきた。しかし、京田辺市民らでつくる「山城松明講」(講社長・松村茂氏)が復活させ、今年で33年目になる。
  また、普賢寺(観音寺)は1300年前、天武天皇の勅願により義淵僧正の開基にて、「修二会」を始めた実忠和尚を第一世とするお寺で十一面観音菩薩(国宝)が祀られている。

                            (事務局 K.K生)

 では、次回の制作日誌(第7号)をお楽しみに。
以  上

「天平萠ゆ」制作日誌 第5号 2010.2.04

  制作日誌第5号として、「山城松明講」の「竹掘り起こし行事」の撮影風景をお伝えします。

 今年で1259回を数える東大寺二月堂「修二会・お水取り」。一度も途切れることなく続けられた不退の行法(ぎょうぽう)は、二月堂を中心にした観音講の人々の信仰によって支えられています。現在、二月堂に関わる講社は33社ありますが、その内の有名な講社である「山城松明講」を京田辺市に訪ねました。

平成22年1月31日(日曜日)、氷雨の降る寒い中、「山城松明講」の竹掘り起こし行事は、京田辺市の普賢寺周辺の竹林にて行われ、その様子を阪本監督が2台のカメラを駆使して撮影されました。

 当日の正午に、普賢寺の大御堂観音寺境内に多くの方々が集合され、周辺の竹林まで徒歩にて移動し、まず竹林内を整備(環境保全活動の一環)しました。参加者の方々のお力で30分後には、見事に竹林は整備されました。

 いよいよ二月堂修二会の「上堂松明」として使用される「寄進竹の掘り起こし」です。山城松明講の講社長・松村茂氏の説明・注意事項を全員が拝聴したのち、寄進竹2本を掘り起こしました。あらかじめ目星を付けておいた真竹を、全員で、一本約40分ほどで

掘り起こしました。一本の長さは22Mもありました。

 500本に一本といわれる真直ぐな寄進竹は4~5年生で、太さは約30cm。これを根付きのまま根元から7Mのところで切りました。重さはなんと50Kgです。

 この真竹の長さ・重さ、そして太さは、あの二月堂の舞台を駆け抜ける勇壮な童子が担ぎやすい、バランスのとれた大きさなのです。

 掘り起こした寄進竹2本を担いで観音寺境内まで運び、本日の行事は終えました。

 2月11日には、「二月堂竹送り行事」が午前9時から大御堂観音寺にて行われます。

(豆知識)

奈良東大寺二月堂の修二会(お水取り)の「お松明」に使用される真竹は、昔、お水取りの行が近づくと、「送り竹の風習」として、山城地方始め高山や月ヶ瀬方面から寄進竹を、奈良に通じる街道筋に置いておくと、善良な村人や旅人、信者たちによって二月堂までリレー式に運ばれた。と言われています。(山城松明講 案内より)

では、次回の制作日誌(第6号)をお楽しみに。

「天平萠ゆ」制作日誌 第4号 2010.1.28

  制作日誌第4号として、「若草山焼き」の撮影風景をお伝えいたします。

平成22年1月23日(土曜日)、冬の風物詩「若草山焼き」が行われました。

 もともと、小正月の1月15日に行われていましたが、昨年(平成21年)からは、休日の連休化で成人の日が定まらなくなり、1月の第4土曜日に行われるようになったものです。

  今年は、平城遷都1300年祭ということもあり、例年の3倍にあたる600発の花火が打ち上げられ、それはそれは見事なものでした。中でも、今年は県内初の、特別な「昇分火付(のぼりぶんかつき)・ 四重芯(よえしん)・引先紫光露(ひきさきむらさきこうろ)」が打ち上げられ、山麓一杯の観衆からは歓声とどよめきが一斉に上がりました。

草山焼き行事の祭典の進行は、16時50分に聖火行列がシルクロード交流館を出発し、金峰山寺の山伏による法螺衆はじめ東大寺・興福寺の僧侶、春日大社の神官が行道。水谷橋の護摩壇(松明点火場)において春日神社の浄火を松明に点火し、若草山麓の野上神社まで練り歩きました。

 17時30分 野上神社にて春日神社神官による祭礼、各代表の玉串奉奠のあと東大寺・興福寺僧侶が読経され、白丁が大松明で山ろく中央の大篝火に点火し、読経終了の止めの法螺を機に、18時、花火の打ち上げが始まりました。 そして18時15分、法螺貝・ラッパの合図にて山焼きが点火(各所で枯草への一斉点火)されました。(東大寺・興福寺・春日大社の神仏が集合し、先人の鎮魂と慰霊、さらには奈良全体の防火と世界の人々の平安を祈りました。)

 若草山焼きの撮影は、阪本監督が各所に撮影スタッフを午後3時過ぎからスタンバイさせて、迫力ある素晴らしい映像を撮ることが出来ました。

 若草山焼き祭典行事、山焼きの遠景そして東大寺境内からの撮影と、意外なアングルから趣向をこらしての撮影でした。どの様なシーンが撮影されたか楽しみです。

(豆知識)

若草山焼きの起源について

 山焼きは社寺の境界争いの為と一部伝わっていますが、これは「俗説」です。若草山三重目の頂上は巨大な前方後円墳(鶯塚古墳)です。江戸末期頃まで、この鶯塚はウシ墓と呼ばれ、いろいろなお話・迷信(幽霊話)がありますが、それは山上古墳の鶯陵に葬る霊魂を鎮める杣人(そまびと)の祭礼ともいうべきもので、供養の為でもありました。  (若草山焼き実行委員会のガイドブックより)

では、次回の制作日誌(第5号)をお楽しみに。

「天平萠ゆ」制作日誌 第3号 2010.1.10

 制作日誌第3号として、年末・年始と1月7日の「修正会」の撮影風景をお伝えいたします

平成21年12月31日(木曜日

 午後11時過ぎ頃には、既に参拝待ちの列が大佛殿中門から南大門まで続いておりました。また、鏡池の辺りで大きな「とんど」が焚かれて、参拝の方々が暖をとられる風景が見られ、この寒い中での参拝の方々に対する暖かいおもてなしです。

 中門内の大佛殿参道両側の水路には篝火が点けられ、また八角灯籠にも灯がはいり、寒さでピーンと張り詰めた雰囲気の中、午後11時55分頃に、大佛殿の桟唐戸(観相窓)が厳かな音とともにゆっくりと開き始めました。この厳粛な空気の中、午前零時、大鐘楼から「除夜の鐘」が聞こえ始めました。

 平成二十二年(2010年)の幕開けです。いよいよ中門が開かれて大勢のお参りの方々が大佛殿に向かわれ、この様子を観相窓から大佛様がやさしい眼差しで見守っておられました。

 一方、大鐘楼でも午後10時頃には既に「除夜の鐘」の順番待ちの方々で混雑し始めておりました。警備の方が順番待ちの列の整理を行なつていますが、大変な混雑ぶりでした。午後11時頃からは整理券代わりの印刷物が配布されていました。

「除夜の鐘」は大鐘ですので、先着順に、8名ずつの組になって撞木の綱をひく事になります。鐘は108回撞きますので、800名余りの方が幸運な鐘撞きに与ることが出来ます。撞木は約4.5mありますので、8本の小綱を付けてひくことになり、それぞれの組の息が合わないと良い音が出せませんので、介添えの童子の掛け声に合わせて綱をひいておられました。百八ツ目は午前0時40分過ぎになつていました。

 

平成22年1月1日(金曜日)

 朝から午後2時頃までは、大佛殿・二月堂周辺・手向山(たむけやま)八幡宮にて初詣の人々の晴れ晴れとした新春の様子を撮影させていただきました。

やはり、お正月のこの風景は日本人の原風景と感じました。

平成22年1月7日(木曜日)

 午後1時から大佛殿での『修正会(しゅしょうえ)』を撮影させて頂きました。

『修正会』は毎年正月七日に金堂大佛殿で祈修される悔過の法会で、「天下泰安」「風雨順時」「五穀成熟」「万民快楽」と「国土の安穏」が祈願されます。

 ご導師の声明が大佛殿内に響き渡り、また「散華」を唱和されながらの行道など印象深いありがたい法会でした。

では、次回の制作日誌(第4号)をお楽しみに。

「天平萠ゆ」制作日誌 第2号 2009.12.23

制作日誌第2号として撮影風景をお伝えいたします

平成21年12月14日(月曜日)

 午前8時から二月堂・礼堂での『佛名会』を撮影させて頂きました。

 

『佛名会』は、阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒菩薩の各千仏像の大きな軸を礼堂に掛けて、千返礼拝の行を行います。千仏の名前を読誦しながら千返五体礼拝をされます。

 あの寒さのなかでも汗をかかれる上野管長はじめ各長老方と僧侶に行の厳しさを感じました。礼拝する毎に末座の二人の僧が香を焚き、山茶花の花を献じます。

(豆知識)

 昔は、過去・現在・未来の三千仏に対し、三千返礼拝を三日間勤めていましたが、現在は14日の一日だけの千返礼拝になっています。

12月15日(火曜日)

 大仏殿拝観の、早朝開門一時間半前から、大仏殿前の「八角灯籠・音声菩薩」を撮影させて頂きました。

 阪本監督は、早朝から気合いが入って集中されて居り、今冬一番の寒さを感じる様子は全くありませんでした。

八角灯籠は総高4m62cmの銅製で、踏割り蓮華の上に立つ四人の音声菩薩がそれぞれ「横笛」「尺八」「笙(しょう)」「銅鈸子(どうばつし・シンバルの様な楽器)」の楽器を奏でておられる、天平仏教美術工芸の極致と謳われている国宝です。『天平萠ゆ』趣意書の表紙にも「横笛」の音声菩薩を・・・、また『天平萠ゆ』のサブタイトル「音声菩薩から何が聞こえてきますか・・・」、のとおり早朝の静けさの中で耳を澄ませてみたい気持ちになりました。

(豆知識

 これら菩薩は菱格子の透し地に浮き彫りであらわされ、周りに宝相華を散らしてあります。

この宝相華は県立奈良高校同窓会のシンボルにもなつています。

12月16日(水曜日)

 本日は、良弁僧正の祥月命日にて開山堂で「開山忌」として法要が営まれます。

 早朝の開山堂での法要の始まる前に、上野管長から翌年の修二会参籠の練行衆の名前が発表されました。また、午前10時から午後4時まで国宝「良弁僧正坐像」の一般公開で、開山堂前は一日中参拝の方々で賑わっておりました。これらの風景を早朝から撮影しました。

 開山堂の名椿「糊こぼし」の蕾は未だ硬く、この蕾が咲く頃は修二会も萬行を迎えておりましょう。

 

 三月堂(法華堂)でも国宝「執金剛神立像」の開扉・一般公開があり、同じく参拝の方々で賑わいましたが、夕方には参拝客の姿も疎らになり、辺りが静かになつた午後6時半から法華堂の「方広会(ほごえ)・竪義(りゅうぎ)」に入堂されるご様子を撮影しました。 

(豆知識)

 「方広会」は、普段は開山堂の良弁僧正坐像の前で行い、東大寺の僧で塔頭の住職になる者が出る時に限つて法華堂で執行されます。「竪義」は「義を竪つる」の意味で学僧試業の法です。方広会竪義では、精義者(せいぎしゃ)が次々と論題を提出するのに対して、竪者(りっしゃ)が答えます。

 さてさて、どの様な映像が見られるか・・・想像するだけで楽しみです。

今回から新しい試みにて豆知識として、関連した解説・話題なども記述していきます。

では、次回の制作日誌(第3号)をお楽しみに。

事務局 M.Y生




次回撮影予定
12月31日から元旦  1月6日から8日

「天平萠ゆ」制作日誌 第1号 2009.12.04

 いよいよ『天平萠ゆ』の撮影本番が始まりました。

 これから一年間、四季折々の素晴らしい東大寺境内の風景と行事、またそれらをささえる様々な人々の思いをドキュメンタリー映像詩として撮影していきます。この撮影風景を、『天平萠ゆ』制作日誌として、その都度スケッチ風にお伝えしていきますので御高覧下さい。今回はその記念すべき第1号です。


 平成21年12月5日(土曜日)冷たい雨の降る朝、撮影開始は、やはり大仏様(毘盧遮那仏)の撮影から始まりました。本尊大仏様を中心に、左右に三丈の高さをもつ如意輪観音と虚空蔵菩薩の坐像が並び、それをまた身丈各四丈もある四天王が甲に身を固めて四隅を護持している大仏殿内は当時の空前絶後な豪華絢爛ぶりを偲ばせてくれます。


 大仏殿への参拝者は、早朝は疎らでしたが、9時過ぎ頃からは引きも切らずに、雨中、大仏殿へ向かい、案内ガイドの説明に熱心に耳を傾けておられるのが印象的でした。このような場で阪本監督は、大仏様の知られざるお顔と表情を、彼独特の工夫を凝らして、無事に撮影することができたようです。


 さてさて、どの様な映像が見られるか・・・想像するだけで楽しみです。

では、次回の制作日誌(第2号)をお楽しみにして下さい。

    

   

 事務局 M.Y生


           次回の撮影の予定

                  12月13日から15日


未だ覚めやらず春草の夢 2009.11.30
「天平萠ゆ」への想い



偶 成 -朱 憙-


少年易老学難成


一寸光陰不可軽  


未覚池塘春草夢


階前梧葉已秋聲




 少年時代は、前の二行の句を意味も判らず自分の励みとしてきましたが、小生の年齢になると後の二行の句が、ことの外いとおしく感じます。「階前の梧葉、己(すで)に秋風を聲く」とは、まさしく今の心境であります。

 それでは、三行目の句にある「未覚池塘春草夢」はどうしたのか?自分の「春草の夢」は何だったのだろうか?この疑問を解く為に、古い本箱の隅から55年前の「靑々だより」を引っ張り出し、昭和29年靑々中学一年生当時の自由詩「大きくなつたら」を見つけました。
 その詩の最後に「やっぱり僕は世の中のためになる人がよい」と結んでいました。あの頃のピュアな心を持ち続けられるか・・・。いまだ覚めやらぬ春草の夢です。
 2年前の(平成19年)6月10日。靑々中学校卒業五十周年記念第八回生同窓会を、東大寺本坊にて恩師・狹川宗玄先生、直木恵美子先生、渋谷和彦先生のご臨席のもとで開催致しました。その同窓会の席上にてN君から、阪本善尚君(撮影監督)の東大寺・修二会(お水取り)への想いを紹介されました。

 中学時代、担任の上司永慶先生に引率されて体験した「修二会の炎への感動」は、一人ひとりの心の中に何かを残したと確信しています。阪本善尚君の思春期の熱い想いは、第八回生の想いへと変化して行き今回の企画の出発点となりました。
 話を進めるうちに、当初は「お水取り」プロジェクトとして、修二会(お水取り)のドキュメンタリー映像を制作する企画でしたが、映像制作対象が「修二会」から「東大寺」へと大きくなりました。

 平成22年(2010年)10月、東大寺にて厳修される「光明皇后千二百五十年御遠忌法要」の協賛事業として、また「東大寺学園同窓会菁々六十周年」の記念事業として、東大寺及び東大寺学園同窓会の森本俊一会長、東大寺学園の矢和多忠一校長のご尽力を頂き、ドキュメンタリー映像詩『天平萠ゆ』制作プロジェクトを立ち上げることが出来ました。
 『天平萠ゆ』の企画構成のための取材撮影を今春、東大寺本坊の満開の枝垂れ桜の下で狹川宗玄長老にお願い致しました。
 また、風薫る五月には本坊・上壇之間にて、上野道善管長および守屋弘斎長老、森本公誠長老にも取材をお願いし、後日、橋本聖圓長老の取材もお願いしております。

 上野管長はじめ、ご長老方の取材でのお話は、それぞれに東大寺への想いのこもったお話で、それを間近にお聞きし、身が震える興奮を味わいました。この取材内容を脚本家による企画構成案にとりまとめ、東大寺のご許可を得ることが出来ました。
 また『天平萠ゆ』命名は、東大寺・庶務執事の狹川普文師にお願い致しました。

 確かに日本は今、平和な日々の中にあると言えましょう。しかし近年、社会にぼんやりとした不安が広がり、ひとびとの心が荒び、他者へのおもいやりの心も薄らいでいるように思われます。
 そのような社会情勢の中で、ドキュメンタリー映像詩『天平萠ゆ』を制作し、私達自身が「東大寺のこころ」を見つめ直したい。そして出来上がった映像作品は是非とも多くの人々に観ていただき、「東大寺のこころ」をよりどころにしてほしい、との想いで胸がいっぱいです。

  ここまでは、第八回生有志(世話人)でプロジェクトを進めてまいりましたが、2009年6月27日の東大寺学園同窓会菁々の役員会にて、正式に『天平萠ゆ』制作実行委員会の設立が認められ、『天平萠ゆ』制作実行委員会の下で、本年7月21日より主に同窓生を対象に制作費募金活動を開始させて頂いております。

  通常この様な映画制作は、大手プロダクションや企業スポンサーがついた格好が一般的とお聞きしておりますが、本企画は敢えて「ヘラクレスの選択」を選びました。

 聖武天皇の大仏造立発願・詔勅にある「一枝の草、一把の土といったささやかなものでも協力しようとする人々の心を・・・」の言葉の通り、皆様におかれましては制作費募金に、ご協力賜りますよう、お願い申し上げます。





々中学 第八回生
「天平萠ゆ」制作実行委員会
山本 勝
 
■ドキュメンタリー映像詩「天平萠ゆ」制作について 2009.8.1
 東大寺南大門の西側に、1学年90余名ばかりの小さな中学校がありました。校舎は小さかったけれど、東大寺の境内全部が校庭でした。体育の時間、東塔跡で球技をやったりもしました。50年ほど前の東大寺学園の前身、青々中学です。
 学園には、のちに東大寺別当になられた狭川宗玄師や上司永慶師が、現役の先生として教壇に立っておられました。
 僕が修二会(お水取り)を知ったのは、上司永慶師が、まだ下の方の役で籠られた時代です。当時、観光客はそんなにおらず、生徒は希望さえすれば、学校に泊り込んで深夜までお水取りを自由に拝観できました。

 ロウソクの明かりだけの世界で、籠りの僧の声明が聞こえる不思議な空間でした。格子越しに見た修行中の永慶先生が、別人のように思えたのを覚えています。
  韃靼の行で、放り投げられた松明の火の粉が、内陣の正面でじっと座って観ておられた写真家の入江泰吉さんに降りかかって、吃驚されていた光景なども思い出されます。

 2007年に8回生の有志の方から同窓会へ、映画制作企画支援の申し入れがありました。この企画が生まれたのは、50余年前菁々中学校で3年間机を並べて共に学んだ第8回卒業生である二人の男の再会からです。

 一人は、日本映画界を代表する名カメラマンの阪本善尚氏、もう一人は、パナソニックで高感度劇場映画用デジタルカメラ開発の責任者を務めたN氏です。この出会いのいきさつは、阪本氏が同窓会報「鴟尾19号」に寄稿された文章に、次のように記されています。
 ― 旧友と判るには、紹介をされてから2年ほど歳月を要しました。五十余年の人生の営みは互いの容貌を変化させ、記憶を会った瞬間に戻すことができなかったのです。
  ある日、送られてきた新しい同窓会名簿に目を通し、彼の名前を見つけました。「もしかして紹介されたあの重役が?」と感じパナソニックのスタッフに電話したら、その三十分後に「もしかしたらあの撮影監督が?」とN君からも連絡が入り、人生の時間軸が再び交わることになったのです。

 二人は昔のことをいろいろ話し合っているうちに、『在学中に担任の上司永慶先生につれられ初めて体験した「お水取り」で、松明の火に興奮し、激しく心揺れた経験がよみがえった。この高感度のカメラならロウソクの明かりだけの撮影が可能だろうから、あの時感じたお水取りの炎の感動をありのままに映像に残すことが出来るのでは・・・』と、いう話になったそうです。
 この話が8回生の同窓会でも話題になり、共通体験を有する同窓生たち一同は、何かに押されるように「ぜひ実現しよう」と即座にまとまりました。

 僕達にとって東大寺は不思議な存在です。ある種のイデオロギーを押し付けられたという感覚はありません。しかし、1250余年変わらずそこにあり続けることに、圧倒され感動を覚えます。

 お水取りは、2010年で1258回目となりますが、752年に1回目が行われてから1度も欠けていません。たぶん連続記録という点では世界に例のない宗教行事です。
 このことについて、現管長の上野道善師に尋ねたことがあります。師の答えは「自分でもよくは分からないが、行に入ると途絶えさせてはならぬという不思議な強い強制力を感じる」と、いうことでした。
 今回の企画のサブタイトルに、「大仏殿の八角灯篭、音声菩薩から何が聞こえてきますか・・・」とあります。この灯篭は大仏殿ができてからずっとあの位置にあり続けています。
 近年は酸性雨のため傷みがひどいので、文化庁はレプリカにして本物は収蔵庫に保管してはどうか、と進言したそうですが、寺はそれを断りました。そこになければ意味がないからという理由です。

 僕は、古希近くなった8回生が、突然何かに駆り立てられるように今回の企画を進行させていること、お水取りが1回も途絶えず続いていること、八角灯篭があそこにあらねばならないこと、これらは全部共通しているように思います。それは「音声菩薩から聞こえてくる」もののように思えてなりません。

 今回の映画の主題は、その答えの映像化です。聖武天皇が大仏建立を思い立たれたとき、できるだけ多くの民の参加を求められたそうです。

  多くの人がかかわってこそ建立の趣旨に則ると考えられたと伝えられています。この映画の製作は、聖武天皇の大仏建立の意味を、現在の視点で見つめ直したいという「想い」で行っています。
 したがって「想い」を共有できる、できるだけ多くの人々の支えで実現したいと考えています。みなさまのご協力をお願いいたします。




東大寺学園同窓会事務局(長)
「天平萠ゆ」制作実行委員会事務局長
松川 利行
 
■ドキュメンタリー映像詩「天平萠ゆ」の公式サイトがオープン  2009.7.22
 これから光明皇后1250年御遠忌法要が厳修される2010年の10月を経て、ドキュメンタリー映像詩「天平萠ゆ」が完成するその暁まで、 映像制作に関する最新ニュースや、 東大寺の様々な情報を、このWEBサイトから皆様にお届けしていきます。

 どうぞお楽しみに!