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2016.3.5

     高齢遊民

2015.5.3

     高齢遊民

2015.3.31

     退職に際して、ご挨拶

2014.12.28

     時間の感覚

2014.10.4

     脱原発への実現可能性

2014.8.4

     諦観と達観 

2014.8.3

     あるデータ No2

2014.8.1

   HP開設18周年

2014.7.25

      SNS考

2014.7.25

      高齢者

2014.3.1

   アドバンスト化学入門

2014.1.30

     5次元理論

2014.1.20

   電離平衡をどうおしえるか

2014.1.16

      科学の美

2014.1.15

   科学技術の進歩と歴史

2014.1.13

      No6 悟

2014.1.12

No5 罪と罰についてのたわごと

2014.1.7

No4 神の意志に報いることについてのたわごと

2014.1.9

No3 神の意志についてのたわごと

2014.1.8

No2 死後の世界についてのたわごと

2014.1.7

No1 無限についてのたわごと

2013.6.9

送る言葉

2012.11.18

22年経過した高校生の人権意識の変化

2012.11.18

22年経過した高校生の人権意識の変化

 

2012.05.07

菊菜の花の不思議発見

2012.05.03

3.11以後 原発をどうするか

2011.04.24

3.11大地震以後

2011.04.04

八重椿の花の突然変異

2011.01.16

ドライアイスの白煙のこだわり

2011.01.05

翻訳用語:化合、化合物について

2010.12.24

ドライアイスの白煙のこと

2010.08.23

ツクツクボウシはいつ鳴くの?

2010.08.15

あるデータからー

継続することの大切さ

2010.08.12

ホメオパシー (Homoeopathy)

2010.08.08

面白い比較試験

2010.08.07

ずっと昔?

2010.08.05

ある20号

2010.08.03

twitterのこと

2010.05.22

救急救命

2010.05.10

平城宮跡

2010.05.09

同窓会

2010.04.29

blog再開

(since:1.Aug.1996)

ブログパーツUL5  

TR> この健忘症の程度を同年代の人に聞いたら皆それなりに有るらしい。70近くにもなってアメリカの大統領になろうという人もいるんだから個人差はかなりあるのだろうとは思う。敬老の日になんかには、70,80にもなって活躍されている老人が紹介されているけれども自分の状態を考えれば、本当のところそれでいいのかなあと思ってしまう。 TR>
―高「齢」遊民―1年間   2016.3.5

  遊民生活もあっという間に1年が過ぎた。人間というものは愚かなもので今日の続きが明日になるだけと思っていて先のことは本当は理解できてていない。だから、仕事をしていた日常からその仕事が無くなった引き算しか状態しか分からないのでひまで退屈しか状態しか思い描けないようだ。幸い教師稼業というのは世間のサラリーマンとは違い精神的に組織への既存意識は少ないのであまりギャップは感じない。むしろ、これは不思議な感覚なのだが、1日があっという間に過ぎてしまうということだ。曜日は意識する必要性が無いので気にしないからこの感覚は強い。つい2,3日前と思っていたことが1週間以上も前だったということも度々である。 記憶力の低下は否めない。名前が出てこない。散々苦労して思い出してめでたいめでたし、その時には忘れてはならじと強く思ったつもりであったのに、少したってまた元の木阿弥、忘れたから覚えておこうとしたことは強く覚えているのに肝心のその名前は何であったのか出てこないというマンガみたいな事態に陥ることも度々である。良く知っている人なのに名前が出てこず、いまさら聞けないので困るということも度々、初対面で自己紹介された人の場合などはメモでもしておかないと話している最中でさえ名前が出てこないということすらある。チョット、ちょっと、正直自分では内心 心配している。

―高「齢」遊民―雑感  2015.5.3

    かって明治から昭和の初期にかけては高等遊民と呼ばれる人たちがいたらしい。遊民とは今でいえばニートかな、ウッキペデイアによると大学等の高等教育機関で教育を受け卒業しながらも、経済的に不自由がないために労働に従事することなく、読書などをして過ごしている人のことを云ったらしい。 当方は、法令的には65歳を超え高齢者に分類されるようになって、この4月から完全に職を辞し本格的な年金生活者となった。年金とささやかな貯えもあり、年齢を問わなければ、高等遊民の定義には一応合致すこととなる。しかし、「高等」というには当初の意味とはいささかずれるので、高「齢」遊民と称することにした。
さて、高齢遊民 最初の感想はといえば、そんなことは別段感じず 、今までとあまり変わらない。これは、教職という職業柄一般のサラリーマンとは異なりある意味準「遊民」のような職場環境下にあったからかもしれない。春休みがまだ続いているような感じである。
 ただ少し違うなと感じたことは、月日の感覚である。曜日の方はかろうじて意識があるのだが、今日は何日であるのかが分からなくなっている。これをしなければならないという予定というのがあまり無いからかもしれない。
しかし、これが少々厄介である。何故なら、予定が無いといっても問題はたまにあるからこれが困るのだ。カレンダーには予定は 一応書き込んでいるのだが、いままでと違い、元々予定があまりないのでカレンダーを見る習慣が付かないのが無くなってしまったのが問題なのだ。パソコン自体はほぼ毎日開くので、開いた段階で音声で教えてくれるようなソフトがあれば有り難いのだが見当たらない。 今っとなっては、仕方がないから、カレンダを机に座った段階で否応なしに視界に入る範囲に置いておき、毎日眺める習慣をつけるしかないのかなと思っている。  

退職に際して、ご挨拶、2題原稿  2015.3.31

その1

 自分ではピント来ませんが法令的には高齢者の仲間入りをしました。3月までは2年間常勤講師をしていましたが、春からは正真正銘の年金生活者です。
  振り返ってみれば学園とは不思議な因縁を感じています。初めて関係したのは、1962年、青々中学の入学試験でした。青々中学という名前は小学校の担任の先生に受験を勧められるまで知りませんでした。何処にあるのかは、受験当日母に連れてもらって東大寺境内にあることを初めて知りました。
  中学1年生の途中で学園が高校を開設することを知らされました。てっきりそれは青々高校かなと思っていたのですが、青々の校名は廃止しされ定時制の金鐘高校と統合し東大寺学園となりました。したがって僕らは青々中学最後の13回生ということになり、卒業は東大寺学園高校の3回生ということになりました。
  高校創設から3年間は入試が無かったので、僕らが高校1年生になった1965年が実質的な新制東大寺学園の初年度になります。1学年2クラス、全校で600人足らずのこぢんまりとした学校でした。
6年間一貫体制の枠はできましたが、それに伴うソフトの面は未熟でしたので、生徒として色々な改革に関わることになりました。色々やった中でもっとも記憶に残ることは、学園最大のイベント、文化祭「青々祭」-このネーミングの名づけ親でもありますが―の原型を初代実行委員長として作ったことです。
  我々団塊の世代は、敗戦の申し子、戦後復興の歴史とともに育ちました。大学時代はベトナム反戦、70年安保闘争、大学解体封鎖の波乱、混迷の時代でした。
 大学卒業後は、11年間の製薬会社研究所勤めで富山と東京で暮くらしました。研究は何を目指しているのかいまいち分かりづらかった大学のソレとは違い、目的が明確でとても興味深く面白かったです。天然物から有望な抗がん物質の抽出を行いました。共同で研究していた医者を通じて僕の手作りの薬剤を末期がんの患者さんに投与したときはとても緊張しました。開発は、前臨床段階まで行きましたが最終的には研究は断念せざるを得ませんでした。その後、抗生剤の臨床開発に2年間関わりました。臨床開発(治験)は基礎研究とは異なり、表面上は科学的様相を呈するも、実態は資本の論理が優先する科学とは程遠いおどろおどろしい現場でした。このとき会社勤めの限界を悟りました。
30歳半ばから奈良に帰り、1984年母校での教員生活に入りました。実は、会社に入って丸2年くらいたった頃ですが、母校の次田校長先生から化学教員へ招聘を受けました。当時は研究が面白くなりかけた頃で、教職には十分興味はあったのですが、その折には、まだその気にはなれずお断りしました。後で分かったことですが、人事異動がほとんどない小さな本校で、10年もたってから母校で教員になれたのは、全くの偶然でした。1度は断ったのに結局は戻ってきたのは不思議なご縁、大仏様のご慈悲を感ぜざるを得ませんでした。
  そして、赴任して1年目、校舎は東大寺境内からここ山陵の地に移転という大事業に遭遇することになりました。
  生徒の時には高校開設、校名変更の大変革に、教師になっては、移転の大事業に出くわすとは何とも言えない因縁を感ぜざるを得ません。
  どういうめぐりあわせか不思議なのですか、色々な事情があって同窓会組織も改革が必要になりその役割を担うことにもなりました。同窓会組織の整備や、同窓会名簿の編集管理、会報「鴟尾」の発行、東京支部の開設などに関わり、財政基盤も確立させ、軌道に乗せることが出来ました。
東大寺学園になってから今年でちょうど50回、節目の卒業式になりました。区切りの年に学園を去るというのも最後まで因縁じみて感慨深いです。
  手作りのような寺の内にあった特異な学校から、最近は全国にも名の知られる「有名校」にはなったのですが、名実ともに普通の進学校に変化していくようでもあり一抹の寂しさも禁じ得ません。これからも青々中時代の良き伝統は継承しつつ発展していってくれることを願って止みません。

 

その2

  僕の教員生活は31年になります。大学は理学部を選んだのは,「教職」には漠然とイメージがあったからですが,教職関係の講義にほとんど出ないまま,単位だけは取得しておきました。
  我ら団塊世代は歴史に残る混乱期,自分にもいまだ総括できていない色々なことがありました。自身心の整理も出来ぬまま時間が過ぎました。素直に教職という気分には無く,何かやり足りないという思いもありました。当時,就職はそれほど難しくは無く,製薬企業の研究所に運よく潜り込めました。しかし,研究室の歓迎会で「10年で成果が出ないようなら僕は教師になります。」というトンデモない挨拶をしたのを覚えています。やはり意識下には教職という選択肢があったからです。今から考えれば世間知らずの暴言でしたが本音でもありました。
会社での研究生活は大学と異なり刺激的でした。実際に身近な同僚が創薬に成功し,それによってそれまでは助からなかった命が助かり,また莫大な利益が生ずる成功例に接すると,モチベーションは上がります。結果的には十年あまりの体験は濃密で驚きの連続でした。
 しかし,創薬の過程では,立場上意に反した過酷な試練を個人に強要されることもあり,奇麗ごとだけでは済まない現実もあることを知ることとなり悩みました。今でこそ,ここで得た知識,見識は,社会の実態,及び己の限界を知ることにもなり僕の人生にとって貴重な宝物となっていますが,神経を病むほどに真剣に悩む立場にもなりました。そんなこともあり,色々な偶然と縁も重なり,30歳半ばで母校での教員生活を始めることになりました。
教育の現場は時間が学生時代に戻ったようで,まるで浦島太郎状態,異国に来たような錯覚に陥るほど戸惑いつつも新鮮でした。
  11年間の社会人の経験は,視野が広がったという点で良かったと思っています。日々意識せず使っている有用な色々ものは,僕自身の研究は残念ながら世には出ませんでしたが,最初は,誰か1人の研究発明によって生まれたものであるはずなのです。その実例を書物などでは無く,その現場に居て実際体験したことがあるという経験は,科学することの醍醐味を伝えるのには大変役に立ったと思っています。
  教育現場は研究場所でないので,予算,器具からして研究はできないものと思っていました。しかし,それは間違いでした。科学する心があれば何処にでも研究材料は転がっています。教えていく間に普段は何ら気に留めていない事柄にも多くの疑問があることに気が付きました。科学啓蒙書や検定教科書にすら全くの間違いがあることにも気が付きました。ぴったりと床に付いたら浮力が無くなる話は,板倉聖宣編集,仮説社の「楽しい授業」。金属は電気を通すが化合物になると電気が通らなくなる例に,硫化銅を使って電気が通らない写真を1ページのグラビア写真で載せていた中学理科の検定教科書もありました。この教科書は最もよく使われていた教科書でした。実は僕も硫化銅は電気の良導体であることを知らなかったのですが,教科書に出ているように銅線をイオウと反応させ化学変化を示そうとしたのですが何回やっても電気を通します。不思議に思い,文献を調べて初めて良導体であることを知りました。教科書でも結構,勘違い,間違いもあり,立派な実験設備が無い教育現場でも「科学」することが出来ることに気付きました。
 考えてみれば授業中に思いついたことや,日常に気付いたちょっとした疑問について気軽に発表できる場があれば良いのですが,適当なものを当時知りませんでした。 権威のある雑誌は,権威があるが故に形式に拘りすぎるきらいがあるようで,組織に属さない投稿は,まず受理されないことが分かりました。
しかし,灯台下暗し,僕の要望にピッタリの場がありました。それがこの奈良県高等学校理化学会会報です。無審査ですが内容が良ければ上部団体の日本理化学協会の研究紀要にも掲載されます。実は,前掲の某学会誌にリジェクトされた原稿「ドライアイスの白煙について」を会報に掲載してもらったのですが,それが紀要にも採択されました。その結果,それまで科学啓蒙書やネット記事などに書かれていた「水蒸気」説は一掃されるという効果もありました。
それ以来,教えていて気が付いた色々なテーマをその都度まとめ,「会報」に掲載してもらいました。
  私学教員としては,「理化学会」という組織については公立中心のように見えて役員としてどう関わればいの分かりづらいところがありました。会の運営についてはあまり貢献できなく申し訳なく思っていて,意見を述べる資格などは無いのですが,最近の若い先生に対する会の求心力は明かにここ十年で低下しているように思います。最近では,代わって,予備校が現場教師に教え方の講義を開いているようですが,入試問題解法のテクニックを学ぶことを良しとする風潮は理科教育にとって由々しき事態だと思っています。理科教師たるものは自身が常に自然の不思議さ,美しさに魅了され,「何(なん)で?」という気持ちを持ち続けていて子供たちに科学する面白さを伝えて行って欲しいと思います。
  尚,折にふれ理科関係で書いたものは,以下HPにも掲載してあります。
http://www.page.sannet.ne.jp/matukawa/rika.html

 
時間の感覚  2014.12.28

 歳を重ねると時間の経過がどんどん早く感じられる。これは、個人の時間間隔は絶対的なものでは無く、感覚的なものだからと思われる。即ち時間間隔の単位、すなわち分母は自分の生きてきた長さになるので、同じ1年間でも分母が年々大きくなっていくのでそれに応じて感覚的には短く感じてしまうからだろうと思う。

 現在法的には高齢者に分類される65歳である。外形的には高齢者なのだけれど、自意識的には全くそれを感じないものなのだと自分がなってみて自覚した。自分がまだ30歳のころに親父はこの歳であったが、それは充分年寄りに見えた。今の自分も客観的にはそのように見えているのだろうか。

 もう一つ不思議な感覚がある。今から15年前は50歳であったはずだが、感覚的にはついこの間のように感じられる。しかし考えてみれば15年先ということになれば齢80になる。15年なんてあっという間なのだからおちおちしていられないという気持ちになる。80になったとしても自意識的にはやはり変わらないものなのだろうか、これもなって見なければ答えは分からないが、なんとなくそうであるように思う。ただ体力的には低下は否めないだろう。当然知力的にも劣化は進むことは確かである。最近密かに恐れていることは物忘れである。時々、ついさっき考えていたことが、考えていたという記憶はあるのに内容が何だったか出てこない。痴呆の兆しだろう。人の名前が出てこない。漢字が出てこない。これは如何ともしがたいのである。脳回路がぽろぽろ劣化断線していってるような気がする怖さがある。

  しかし、問題はそんなことよりもこれから先は、今までとは比較のしようの無い程の違いが生ずる虞の自覚である。それは死である。平均余命からすると格段の高率になる。親父は66歳、御袋は73歳、苦労した世代だから少し早いように思うが、遺伝子的には十分可能性はある。こういった自覚は50歳の頃は皆無であったが、今は違う。

 来年4月からは完全な年金生活になる。幸い時代的には戦後の良き時代であったので先行きの経済的な憂いはないのは幸せである。しかし、俄かには年金生活を楽しむイメージが今だ湧いてこない。かといって今更何かをおっぱじめようとは思わない。しかし、予定の無い生活って、どんなものか、ちょっと興味がある。

脱原発への実現可能性・知恵■ 2014.10.4
10月1日 日経新聞によると、太陽光発発電等の再生エネルギーの設備容量はこの2年間で7178万キロワットとなり、原発70基分に相当する。九州電力、北海道電力管内では昼間の需要を上回る発電量になっているそうだ。原発事故の後再生エネルギーへの転換を求める意見に対し、太陽光発電などはとても規模を賄い得ないので無理だという見解で、原発の必要性を主張していたが、政府より民間の方がはるかに賢い。  電気は貯めることが困難なので、夜間の電力をどうするのか、また太陽光では天候に左右されるという欠点があることを理由に、安定電源としての原発の必要性の根拠にしているが、この点に関しては、電力会社間での送電インフラの改善など現行の技術の範囲においても相当分フォローが可能であろう。政府・電力会社は既存の原発維持有りきの発想なのでこの分野での改革についておよび腰なのは問題である。 しかし、民間活力によりたった2年で、再生エネルギーがこれまでに拡大で来たことは、素晴らしい民意である。この段階だけでも、電力会社間の送電インフラの共有化を急ぎ、夜間電力や、天候不順における電力不足分については、火力発電所等により補完する体制を構築すれば、当面は十分やっていけるのである。その為には未熟な技術の原発とはキッパリと縁を切るという決断が必要である。  川内原発の再稼働が問題になっている九州ではすでにピーク需要にたいする再生エネルギーの発電量が120%となっているが、今後、地熱発電や風力発電などの開発も促し、原発を動かすのではなく、脱原発モデルの先駆者になってほしいと願う。    

諦観と達観  2014.8.4
 諦観と達観の違いは分かるだろうか。どちらも似たようでその違いはと言われたら答えに窮す。用法的には「達観する」とは云うけれど「諦観する」とは普通言わない。ネット検索で調べたら面白い定義を見つけた。達観とは「諦観を持ってみること」とある。諦観とはある特殊な心理状態を表しているようだ。そう言えば、諦念というけれど達念とは言わない。  諦観は仏教用語として用いられることが多い。「諦」は単なる断念ではなく事の本質を見きわめ、悟りあきらめること。超然とした態度―開き直り―をとることとある。諦めるは、明らめるに転ずるのである。  因みに英語ではどう訳すのだろうかと調べてみたが、形式的にはresignationが出てくる。これでは、欧米人には真意は伝わらないだろう。realizationを当てる物もあったが果たしてどこまで理解されるのであろうか。

 

あるデータNo2  2014.8.3
  健康診断のデータ36歳からの分を保存してある。今年で29年分となる(一覧表はここをクリック)。継続してみると色々なことが分かる。データは1985年、36歳からであるが、この歳に故郷に戻り製薬会社の研究職から転職して教師になった。データは残っていないが、研究所時代20歳代の後半に迂闊にも実験で大量に使用していたクロロフォルムで肝炎になりGOT、GPTが100位まで上昇したことがあったが、これを機に10年程吸っていたタバコを完全に止めた。肝炎時には丸1年完全禁酒もやり、その摂生のかいがあり約1年でGOT,GPTは正常値に、禁煙のお蔭で体重は55kgから60kgに上昇していた。GOT,GPTが正常値になったので晩酌は再開、以後、1日最低でもビール1本は欠かさず飲んだ。諸般の事情で、36歳で11年間の会社勤めを辞め、故郷に戻り母校で教職に就いた。これ以後のデータが記載分である。教職に就いてから体重はさらに5kg 増加し、65kg程度になっていた。 40歳になった折、一念発起してジョギングをすることにした。距離は家の周りを夕食前に2km程度走ることにしたのである。一汗かいてのビールが美味しくなったためか体重はだんだん増加気味に、そこで、2003年(54歳)の9月からフィットネスクラブに加入した。運動量が増えたためか、中性脂肪が顕著に減少したが、酒量の方は段々増えていったため、2011年にはついにɤーGTPが122まで上昇、これを機に今度は完全禁酒を決断した。禁酒の効果はてきめんである。コレステロール値がやや高い他は極めて良好に推移している。禁酒、禁煙、適度な運動が健康にとっていかに大切かこのデータを見れば明らかであろう。

 

Hp開設18周年  2014.8.1
 このHP、「TOSHIES VERDEN」を開設して18周年になる。開設したのは、1996年8月1日、日本ではまだHPが数千件ぐらいしか無く珍しかった時代だ。 WINDOWS95が日本で発売されたのは、1995年の11月23日、僕がPCを初めて購入したのは翌年の3月、NECのワープロ文豪からの乗り換えであった。当時PCはPC98の全盛の時代であったが一般には普及していなかった。そこへ話題のWIN95の発売、何れはPCをと思っていたので、値段が安かった富士通のFMVを購入した。当時は、PC98で、一太郎、ロータス1-2-3全盛であったので、WORD,EXCELってこれ何?って時代、使い方を教わる人も周りおらず試行錯誤の毎日で大そう苦労したのも、今は良い思い出。それが、その年の8月1日にはHPをUPするところまで行ったのだから我ながらすごい集中力であった。当時は、個人のHPの開設は珍しかった(日本中で数千のオーダーだったように記憶している)のでPC関連雑誌にもURLが紹介されたこともありました。 HPの名称を「TOSHIES VERDEN」としたのは、1995年に発売され話題になった翻訳本、「ソフィーの世界」(Sofies Verden)を拝借しした。 この本はノルウェイのJostein Gaarder が青少年向けに書いた哲学書で、日本語訳は池田香代子という女性の方でした。この方はのちに「世界がもし100人の村だったら」という翻訳でも話題になった方である。それにしても哲学書がベストセラーになる時代、まだまだ生真面目な時代だった。  当時はまだ個人HP が珍しかったからだろうが、彼女が僕のHPを見付けたのか、向こうからメールを頂き、年齢も同世代₋団塊だったことも有り意気投合、何度かメールをやり取りしたということもあった。そう言えば、それ以外にもHPがご縁で見も知らない色々な方とメールをやり取りすることもあったが、それはもう遠い昔のこと。 
SNS考  2014.7.29
 Facebook(SNS)疲れっていう現象があるらしい。なるほどな、と思い当たるふしはある。 人は生きていくうえで様々なステージを経ていく。それぞれのステージで色々な出会いと別れを繰り返し様々な人間関係を經驗しながら生きてきている。人生とは川のように後戻りしない一本の流れに例えられる。 FBはそんな日常の時間、空間を越えて突然昔の人間関係がネット中の疑似空間に突然復元させることになる。暫くは懐かしい再会で、同窓会のような気分になる。しかし、一方的な今の日常が細かくリアルタイムで頻繁に伝えられてくると流石に食傷気味、疲れてくる。これは仮想空間の宿命であろう。 この20年近い間に、SNSの類は初期の掲示板、メーリングリスト(ML)などがあり、その他ツイッター。ミクシィやLINEと次々と生まれるが、当初は目新しさのために急速な勢い恐ろしいほどの規模にで広がるけれど、厭きられ衰退も早い。バブルである。便利で自由で、刺激的だけれど、厭きも早い。 これは、仮想空間の共通した限界のような気がする。FBも最早ピークは越えたように思う。情報伝達として有用な部分は残っていくであろうが、今までのような勢いは無くなっていくであろう。さて、次はどのようなバブルが生まれてくるのだろうか?
高齢者  2014.7.25
 最近TVを観ていると、65歳以上の高齢者が云々と言われる。法的な高齢者は65歳かららしい。当事者であるはずの自分が聞いていて他人事のようでどうもピンとこないのである。認識というものは主観と客観では大きく解離しているもののようで、TVで報じられるいわゆる高齢者の映像は、皆、自分より年寄りにみえてしまうから不思議だ。 我が身も客観的には歳相応に老けているはずなのだから、周囲はそれなりの対応をしてくるようになって当たり前なのかもしれないが、当の本人には年寄りの自覚が無いもんだということが、自分がこの歳になってみて初めて分かることだとは、不覚だった。 年寄りは周りから年寄り扱いされることを嫌うことがあるが、主観的には老いを自覚できないからだったのかもしれないなと、今は思う 。翻って見れば、これは順繰りなんですね。自分も若いときには「老人」に対してはそのような見方をしていたなあと思うので、良い「老人」になるためには、これは甘んじて受容せざるを得ないのかもしれない。 しかしなあ、ここにきての社会の右傾化をみていると、危なっかしくて仕方がない。
拙著理科アドバンスト 化学入門がプレミアム付きでオークションに  2014.3.1
以前に書いたが、2003年に文科省のゆとり政策に対抗して作った、拙著検定外中学理科の教科書、理科アドバンスト 化学入門 (Z会出版)が、ヤホフクでオークションに出品されている。それが、定価800円の本がなんと1250円で! 
5次元理論  2014.1.30
 

 BSを見ていたらハーバード大学の教授、リサ・ランドール「 異次元への招待」の再放送をやっていた。物理学的にみて我々の世界即ち空間的に3次元では宇宙については説明できないことがあり、その解決のためには、時間軸を加えた4次元にもう一つの次元を加えた5次元宇宙をの存在を考えねばならないという新理論だそうだ。物理学の詳しいことは分からないが、5次元の存在を予見した発想は、僕がこの欄で書いた10代の頃に悩んで考えことを思い出して たわごと集 No1 ~No6に書いたものと非常に似ている。 これは僕も捨てたもんでは無いなあと自己評価。

電離平衡をどう教えるか 2014.1.20
 

 ヘッドライン:化学の理論を高校でどう教えるかという特集記事の一つで、電離平衡の内容を、特に塩の解離平衡の取り扱いについて、従来から成書に記述されている加水分解定数(Kh)を使うものではなく、近似の処理を考えた原理原則に基づいた基本解法を提示しました。「化学と教育」第61巻 12月号(2013年)p582₋585

heikkou

 

科学の美
 写真は,稲の葉先についた朝露である。この小さな水玉は朝日を受けて時よりダイヤモンドのようにキラリと輝く。そのまま見ていてもとても美し露い。  昨日の夕方にはなかったのに,この宝石は夜の間にできたのである。どうしてできたのだろうか。  目を近づけてみよう。そこにはまた違った美の世界が広がる。 ダイヤモンドのように光ったのは,ただの水玉である。そう,ただの・・・。 しかし,本当に,ただの水玉で興味は終わるのだろうか。目の前の稲穂には無数の朝露がついている。視線を変えてみよう。太陽の光を受けている水玉は角度によってまるで黄金のよう輝いたりもしている。どうして,ただの水玉が,こんな変化をするのであろうか。  近づいてよく観察してみよう。われわれが知っているコップの中の水は手でつかもうとしてもするりと逃げてしまう。机にこぼすつゆ2と机の上は水浸しになる。 それに対し,この水は,丸い球になっていて,まるで,接着剤でくっ付けたように葉っぱにくっ付いている。コップの中の水と同じものでできていると考えられるだろうか,実に不思議である。  なぜ,ただの水が,ダイヤモンドのように輝くのか? なぜ,水玉になって葉っぱにくっ付くのか? 理由があるはずである。 目を凝らして水玉の奥に立ち入っていこう。そして,きれいに並んだH2O(水)分子の姿が頭の中に見えてくるようになって欲しい。自然の世界の現象は,原子の世界の秩序の反映なのである。そこには,また別の美しい世界が見えてくる。  科学は,この自然の理屈の美しさの発見なのである。(拙著 Z会出版 「化学入門」 あとがき)

 

科学技術の進歩が人間の歴史を創る。
 

 言語や、科学,技術,複雑な社会制度などを発展させてきた現代人に繋がる人類の祖先は,20から30万年前ぐらいから地球に存在してきたと考えられる。 しかし,科学,技術について取り上げるべきことがらが生まれたのは,銅器などの使用が認められるせいぜい数千年前ぐらいである。 より体系的な科学技術芽生えたのは、紀元前500年ごろからの古代ギリシャ時代からであろう。この時代には、古代原子論のデモクリトスや,中世までヨーロッパの学問に強い影響を与えたアリストテレス、浮力のアルキメデスなどが活躍した。 さらに, 150年ごろには,プトレマイオスが天動説を唱えたが,古代から中世の15世紀にかけての長い間は,キリスト教の強い影響下にあり科学的な新しい考え方は生まれなかった, 1500年代に入ると,コペルニクスの地動説に象徴されるように,近代科学の始まりの世紀となった。 1600年から1700年ころにけて,ガリレイ,ニュートン,ラボアジエ,などが活躍し,いわゆる自然科学の成立時期となる。 それが,1700年代後半にもなると,科学の成果が技術に応用されるようになり,新しい産業の誕生(産業革命が)が起こる。 そして,1800年代は,科学と技術の統合の世紀であり,1900年から現代にかけての巨大科学時代に続いていく。
 これらの科学技術の発展が,人類にどのような影響を与えたのだろうか。「人口の変化」が1つのヒントを与えてくれる。 地球の人口は現在60億人を超えているが,この人口増加は,1600年を境にして急激な増加傾向を示し,近年は爆発的とも思える増加率である。
 1500年から1600年にかけては、近代科学の始まりの世紀で、それ以降の科学技術のあゆみと、人口増加率を比較すれば,科学技術が人間の歴史にとって決定的な要因になっているこにを疑う余地はないであろう。

 我々は,どこから生まれどこへ行くのか,人間の歴史には方向性,目的性があるのかどうか,何者かの意思が働いているのか否かの疑問は,きわめて哲学的な問題である。しかし、コペルニクスの地動説が人々の世界観を一変させたような象徴的な出来事をあげるまでもなく,科学技術の進展が,人間の歴史を動かす主要な要因になっているということを,この人口変化は如実に物語っているのではないだろうか。
 歴史書においては、歴史を動かす主要因として,政治や経済,または思想などが注目されているが,科学や技術の果たしてきた役割については,人間の道具,あるいは文化の一部としてぐらいしか捉えられていない。人間の主要な営み、それは政治、経済であり、科学技術はそれらにに従属する副次的なものとしてみられているようで、科学技術は、歴史の脇役でしかないが如き取扱いだ。
人々の意識がそのようなものであったので、新しい科学的成果や技術が現れると,それが,その時代にとっては好ましくないものと思われれば,コペルニクスの地動説や,産業革命時の機械打ちこわし運動のように,それを政治的な力で排斥してしまえば済む程度の解決策しかうまれてこなかった。
しかし,それらの人間の浅はかな判断は,功を奏さなかったことは歴史が証明している。それは何故だろうか。実は歴史の原動力の本質を見抜けなかったからである。地動説や、産業革命は歴史の必然の中で現れて来た結果で、その本流れは妨げることはできなかったのである。 人類の歴史を考えてみると若干の紆余曲折はあるが一定の方向性を持っている。その方向性は何によって規定されているのかの考察は、今まで哲学者、宗教家、歴史学者等によって色々論じられているが、ここでは、やや乱暴かも知れない歴史観の転換を試みよう。科学的進歩の過程で生まれた諸矛盾は,科学的進歩は、それが歴史の流れの本流であるので、その解決には、科学的成果の否定をしても解決にはならない。その解決には、それ以後のさらなる科学的発展の中で自立的に解決するしか術はないのである。 産業革命で生まれた大量生産方式は,社会に様々な矛盾を生んだけれど、その解決には、大量生産を止めることではなく,それを進化させていく過程で解決されてきた事実を学ぶべきである。
変化しうるものの中には,常に矛盾を内包しているので,時代が進むとまた新たな矛盾があらわになってくるのは必然である。これは人類がいる限り続くであろう終わりのない道程である。
翻って見れば、今日的な最大の問題は,エネルギーと環境問題であろう。 爆発的に増加した人口,豊かな生活を味わった人々,みんなが同じように豊かさを味わうためには,矛盾する課題のように思われる。
人口増加,豊かな生活が,科学技術の進歩の中で生まれてきた結果であるのだから,今までの人類の歴史がそうであったように,この困難な問題も,科学技術の進歩の中で克服されていくしか方法はない。 図は,宇宙から見た地球の姿である。この写真は,いうまでもなく,巨大ロッケットと通信技地球1術,コンピューター等,地球2現代科学の粋を統合して,は じめて入手できたものである。
この1枚の写真は,
それは,われわれに,地球はとても狭くて有限であること,生命を守ってくれている,地球の大気が、とても頼りなく薄いことを認識せしめた。
偉大な哲学者,政治家などが,何万言 言葉を発してもなし得ないないほどの影響力をもっているのである。 こういった共通認識を世界中の人々が持つようになったが故に,今日問題になっている,エネルギーのこと,地球環境のことを,人々は地球規模で考えられるようになってきたのである。
ここ数年で発達してきたIT革命は,多分,これからの世界で,国という概念を打ち壊していくであろう。すでにインターネットの世界には国境線は存在しない。このように,新しい技術は,新しい認識を人々に与え,そして,新しい知恵がまた生まれ歴史は流れていくのである。
この歴史の方向が,良いのか悪いのか,目的性があるのかないのか,これらはわれわれの大いなる関心事ではあるが,解答はない。しかし,歴史は決して逆戻りはしない。
科学の進歩の過程で生まれてくる諸問題は,科学自身の自立的発展によって克服していかねばならない。その科学の自立的発展を担う主体はわれわれ人類の知性にある。20世紀にあっては、科学的成果が兵器に使われ、多くの不幸をもたらしたことで、研究者は科学的真理探究だけは許されない雰囲気が生じ疎外現象が生じた。科学は両刃の剣ではあるが、科学的発展で生じる諸矛盾は、歴史を動かせている正体そのものであるが故に、その更なる発展でしか矛盾は解決できないことを自覚すべきであると思う。この営みは人類が生き延びるために試されている永遠の課題―業―なのである。(拙著 Z会出版、「化学入門」、7章より改) 

 

No6  悟のようなもの? 2014.1.13
 

生れながらに死を与えられる場合、この事態を如何に理解したらよいのか。僕は悩んだ末に自分なりの理解を得ることが出来た。それが最初に述べたN01とNO2に関係ある。 魂(生命)の世界は、実は幾重にも重なって出来ていると考えれば良い。この考えは、仏教やキリスト教にも含まれているのではなかろうか。キリスト教ではアダムとイブが原罪を背負ってこの世に出現し、色々な試みを経ていずれ天国(神の国)に至る。仏教においては、現世の下のいずれかには地獄が在り、上には須弥山の頂の極楽浄土に至るまで様々な次元の世界が在ることを示している。これは最初に述べた次元の違う世界に類似していると考えれば良いだろう。こののモデルは、個体発生は系統発生を繰り返すというヘッケルの反復説を思い起こさせる。我々の魂は様々な段階を経て最終的に天国に至るのである。この世界の存在は、最初に述べた無限と次元の概念を思い起こせばそれに類似のものと理解すればよい。前述のように次元から次元への境は認識できないが連続である。現世から次の段階(来世)へ移行するには簡単である、5分ほど息を止めるだけで良い。この確信を得ることが大事だ。

 現世だけしか無いとと考えれば色々な不公平、理不尽が存在するように思える。不幸に会うと人は自分の運のなさを嘆き、神を恨むだろう。しかし、それは間違いである。人間の浅知恵で神を疑うのは愚かである。 神は全てのものに平等を約束しているという確信があればそのようには思わない。死産として生まれたことは、現世のステージを飛ばすのが神の意志と考えれば良い。これが本当の宗教心、悟りの境地である。色々な経路(次元)を経て多分願望として持っている最終次元(彼岸)までたどりつけば、全てに同じ恩寵が与えられるものとの確信を持てれば良い。お金(献金)を包んで便宜を働いてもらおうとすることは、それは神への冒涜行為である。 仏やイエスキリストを拝んで自分の(現世)御利益を期待するのは浅ましいヤフーの心根である。神の愛は無償の慈しみ(大慈)である。信仰とは仏やキリストの前で拝むことを強要するようなものものではない、神の絶対的な愛を確信することだけである。確信さえ持てば、己の信ずることをやるだけで、罰当りを恐れて何々をせねばならないと強迫観念を抱くこともない、自由になれる。 親鸞が、歎異抄で伝えたかったことはこのことであると勝手に思っている。寺や神社に行って手を合わせていても自分自身が何か嘘っぽいと感じていたが、その理由は分かった。信仰とは、神の本意を心で確信するだけでそれ以上も以下もない。ましてや形や場所は全く関係ない。それ以来、僕は手を合わすことを止めた。そして貴方の宗教はと聞かれれば、僕は「自分教」と答えることにしている。(儀式など慣習的な行事では僕の立ち位置をいちいち説明するのは面倒なので、付き合い上、作法などは世間の慣習に合すようにはしている。以上の内容は、20才の頃考えたことで、書いたものは紛失してもう無いが、65才になろうとしている今、確認の意味もあって、思い出しながらて書いてみた。この間、両親との死別等、いろいろな現場に遭遇したが、やはり、僕の考えは基本的に当時とは変わっていない。 (完)

 

>罪と罰ついてのたわごと 2014.1.12
 神の意志によって我々が生かされているとして、神の遺志に報いるということは個人は良く生きるということである。善行は神の喜びであり、悪行は神の悲しみである。したがって悪行の報いは罰を受ける。人は神の意志に従い刑法を定め神の代行を執り行い罰を定める。裁判所である。最高刑は死刑である。悪いことをしたので自分の命をもって償うのは当然のことと思われる。では、天変地異や事故によって死に至るのはどう考えるべきか。考えようによれば、自分は何もしていないつもりでも知らず知らずのうちに小さい悪を積み重ねてきたからその報いだと考えられなくもない。キリスト教のの原罪などはそのような考えだろう。だからどの宗教も善行を説く。神に帰依すれば災いから免れると信仰を勧める。う~ん、ここにきて僕は立ち止まる。
 明治生まれの父は信心深く、毎日仏壇で般若心経を唱え、神棚に拝んでいた。正月ともなれば春日大社、石切神社、伏見稲荷等々神社の梯子をするのが習わしであった。仏教や神道は内容よりも先に当然のものとして感覚的に馴染まされた。大方の日本人はそうであろう。高校生にでもなれば歴にの中でそれらを学ぶが詳しいところは信仰の自由ということで詳しくは学習しない。仏教の教えについてはお釈迦様の一生というような絵本のようなものとか、日本の仏教は歴史的な宗派の系統ぐらい。神道に至っては天皇制との絡みも有り神話の絵本程度の知識である。日本の仏教は妻帯を認められ教団は利権化し江戸時代以降は体制に取り込まれてしまって宗教本来の力は損なわれているようで興味をそそらなかった。詳しく学んだ訳ではないが、仏教では唯一、親鸞の歎異抄 悪人正機説だけは気に入ってる。しかし、妻帯を許されなかったはずの教団が何故か世襲化され現代に至っている姿には興味はない。利権の私有財産化という観点ではそれをしていないキリスト教の方がまだ良いのかなとも思い、高校生の頃は教会には結構通ったことがある。カソリックとプロテスタントの差は興味深かった。教会の雰囲気抹香臭い寺とは異なり、讃美歌など垢抜けて洒落ているが、どうもあの聖書なるものの中身には心に響くものではなかった。日曜礼拝の後、神父あるいは牧師なるものが聖書の中身を用いて説教してくれるのであるが真実味に乏しく僕の心に響くものが無かった。
話は、少し横道にそれたが、既成宗教はいずれも自分たちの教団に帰依すれば救われるというのが根本にある。そのためには献金、お布施である。お金は善行の代わりになるそんな馬鹿なとは思うが、 善行に励んだものは救われ、励まなかったものは罰を受ける。ここまでは何とか理解しようと思えば可能である。しかし、僕はここで根本的な疑問にぶつかった。罰の最大刑は死刑である。先に言及したように自分では悪いことをした自覚がなかっても、生きるということはキリスト教の言うように原罪をしょっているから致し方ないので、人は色々な死に方をする。では、この世に生まれ出前にすでに死んでいる、この場合この子はこの世では何も悪いことはしていないのに何故、死を宣告されなければならないのか?この事態をどう説明し納得させるのか、既成宗教には見当たらない。(つづく)

                                         

No4 神の意志に報いることとはついてのたわごと 2014.1.11
 人が生きていることが神の意志としたら、この世の中での善の行為は生を助けることに寄与できるか否かであろう。日々の営みはこの基準に合致しているか否かで検証できる。労働の価値の評価もそれに則って考えれば良い。したがって、生けとし生けるものの繁栄に寄与することは即ち善、殺めることは神の意志に背く行為で悪ということになる。キリスト教や仏教など宗教的倫理観は宗派を超えて大体この理屈で成り立っている。生けとし生けるものがことごとく繁栄する世界が理想なのだが、これはすぐ破たんする。即ち生命の維持は、食糧としての別の生命の消滅が必定だからである。したがってここで考えられている命は、神の子である人間の命の価値だけで成り立っている。この事実を正当化するために、食されるために殺された命は、神の子たる人の命を維持するために役立つのだから、何ら神の意志に矛盾しないという理屈が準備されている。実証できない領域の話ゆえ完璧な説明は不可能であるので、この当たりはどの宗派も綺麗ごとで済ませているのは致し方ない。しかし、個人の倫理観として、命を生かす行為は善、生かさない行為は悪と知ることは悪いことではない。(つづく)

                                         

No3 神の意志についてのたわごと
  自分は何処から来て何処へ行くのか?この疑問は時代を超えて人が抱く根本的命題である。地球に生きとし生けるもの、生まれてから死ぬまで自意識を持つ肉体は存在する。肉体は死によって肉体は消滅するが意識はどうなるのか。意識というより魂と言った方が良いかも知れない。昔の絵には死によって魂は肉体から出ていく様子が描かれたものがあるが、肉体は仮の宿で魂は不変であるという考えがあったからだと思われる。何ら目的もなく突然、生を受け一定期間が過ぎたらただ単に死んで無に帰す、ということは落ち着かない。生きてる目的、意義を見出したいというのは自然の心情である。何故このような気持ちが生じるのか分からないが、タダ無目的では落ち着かない。個体は発生して死に至るまで成長老化の道をたどる。肉体及び精神の変化は一定の方向性を持っている。生きているということは同じ所にいることではなくベクトル性をもっているのである。この方向を定める主を神と理解したのではないだろうか。我々が生かされているのは神の意志と理解したのである。(つづく)

                                         

No2 死後の世界の存在についてのたわごと 2014.1.8
  死後の世界がどの様なものか気掛かりなのは普通の心情である。こればっかりは見て来た人は皆無だろう。我が母は寝ている間に亡くなった。母にとっては寝ている状態から心停止して死亡に至る状態の認識は無かったであろう。すなわち、死んでいる状態というのは実は寝ている状態と同じなのだと想像できる。即ち意識は無いのである。この意識というのには少し説明がいると考えている。即ち、この意識というのは現世から見たものだ来世にはまた違う意識があることは否定しない。現世の知覚では来世は認識できないのである。
 僕は高校生の頃世界を知りたいと思った。寝ているのが疑似死んだ状態とすれば、死と生の境界は正に覚醒と眠りの境と同じようなものだろうと考えた。そこで、この境を見極めてやろうと試みたわけだが、微睡みかかるともうすぐかと意識し覚醒してしまい不眠になってしまって、これにはっ成功しなかった。現象的には覚醒と眠りの状態は明確な差が有るのだが、その移行状態は自意識では認識出来ず不明なのである。それ故に、僕は死後の世界が有るか無いかの判断はできないが、無いと考えればそこで終わりだが、これは何とも宙ぶらりん、どうも落ち着かないのである。では、在ると考えればどのように説明できるのだろうかと思い巡らした。この心情は万人に共通しているようで、歴史的には色々な人物がその解明に努めた。それらがいわゆる宗教である。生きているものにとっては在ると考えた方が自分にとって納得がえられ精神の安寧を得られたからであろう。(つづく)

                                         

No1 無限についてのたわごと   2014.1.7
   宇宙の果てはどうなっているのか、という疑問は古来から人類が持っている疑問である。宇宙は広がっているといわれてもそれは星が存在する空間の広がりをいうのであって空間そのものには言及されていない。果たして星を散りばめているその空間事態の端は有るのか否や、果たしてどうなっているのか、明快な解答を知っている人を知らない。答えらえる人に逢ったことが無い。宇宙は広がっているというがそれは、水面に落とした一滴の油が水面に広がっていくのと同じく、星が空間に散らばっていくことを言うのであって、空間そのもののことを言っているのではないだろう、空間は最初からあることが前提としているのである。だから、不思議なのである。どこまで行っても果てのない空間、これが素直にイメージ出来ない。無限空間なのだ。 数字については、 1,2,3、・・・・と数字は限りなく大きくなるが限りが無いことになる。こうなると人間の頭はパニックになリ落ち着かない。そこで考えられたのが無限記号∞、これを1,2,3という有理数と同列に置くことによって無限の不確かさのパニックから解放された気分になれる。 この無限の不思議をもう少し考えてみた。空間は3次元である。もし2次元の世界であったらどうだろうか。地震計のドラムのようなものを考え、ドラムの上に乗った蟻を考えてみよう。蟻は小さいので2次元の世界しか認識できないとしたら、この蟻はドラムの上を歩いても端に行きつかない。無限の世界が広がっているのである。当然、3次元の世界から眺めていると同じ所を回っていると答えは明快だ。では、空間的に3次元の世界(時間軸を入れると我々の世界は4次元であるが)である我々の世界ももし空間的に4次元の世界を想定すれば同じようなことが言えるのではないだろうか。上の次元から下の次元は見えるがその逆は見えない、認識は不可能であるが・・・(つづく)

                                         

送る言葉 2013.6.9
  卒業生の皆さん、元気にやっていますか。担任として卒業生を送り出した折の新学期にはいつも感じるのですが、校舎の佇まい、そこを行きかう生徒の日常は同じでも、そこに慣れ親しんだ顔が神隠しにあったように、ごっそり消えてしまっている現実には戸惑います。でもこの気分は、新しい学年の担任を持つと、感慨に耽る暇もなくその対応に忙殺されすぐに無くなるものなのですが、今回は、僕自身がこの年度で定年退職だったこともあり殊更強く感じています。引き続き常勤講師として出校していますが、一つの区切りがついたという思いは、自分の想像以上に大きいものでした。
校務分掌の関係で10年間程担任から遠ざかっていましたが、教師は担任をやっていくらの職業との思いが強く、希望して、この学年の中学3年から担任団に潜りこみ勤めさせてもらいました。僕の思いにつき合わされた諸君には迷惑だったかもしれませんが、計画どおり無事卒業生を送り出せ有終の美を飾れたこと、この点については君たちに感謝です。
 翻って見れば、「僕の後ろに道はできました。」、ここに至るまでには、一歩決断を間違えばとんでもない事態に陥っていたかもしれない岐路が幾度かありました。しかし、済んでしまえば、幼いころに不確定に思い抱いていた自分の一生のイメージから、そうはずれずここまでやって来られたことに、不思議な気がしています。
 結果的には教員生活は29年になりました。何故、教職を選択したのかを思い起こしてみると、幼少期、戦後の混乱ときに4人もの子育てに大変であっただろう母から、自分の若い頃、ほんの一時ですが、教員をしていたときの楽しい思い出話を、小学生の僕にしてくれたのがなんとなく記憶に残っていたからです。
僕らの大学時代は、歴史に残る混乱期でした。自分にもいまだ総括できていないことも色々体験しました。自分自身が心の整理も出来ぬまま、就職する段になって素直に教職という気分にはありませんでした。何かやり足らないという思いも強く残り、教職に就くとしても、もっと「世間」を知った方が良いと思ったからです。
当時、就職はそれほど難しくは無く企業の研究所に運よく潜り込めました。研究室の歓迎会で、「10年で成果が出ないようなら僕は教師になります。」という、とんでもないスピーチをしたのを覚えています。今から考えれば世間知らずの暴言ですが、本音であったことだけは確かです。結果的には、会社での10年余りの体験は、濃密で驚きの連続でした。ここで得た知識、見聞は、己を知ることにもなり、僕の人生にとって貴重な宝物となっています。
色々な偶然と縁が重なり、30歳半ばにして、母校での教員人生を始めることになりましたが、主観的には、それは全くの予定調和の展開でした。
 生徒であったときには、青々中学から途中で東大寺学園に校名が変わり、そして教員になってからは、東大寺境内の旧校舎からの山陵への移転時期に遭遇と、いつも激動期に巡り合うという不思議な学園との縁でしたが、とても充実したときを送れたことに感謝しています。
 君たちの前にはまだ「道」はありません。でも、その道はまず自身でイメージしてみることが最初です。そのイメージが快いものであったとしたら思いを大切に育てることです。途中、紆余曲折があったとしても振り返ってみたらきっと君の描いたとおりの「道」が君の後ろにもできていることでしょう。
僕もまだ先の「道」は短いだろうが残っています。ただ、若いときのようにもうワクワクするイメージではありません。でもこの先君たちがどのようにオオバケしていくのか、それを見届けるのは元教師としての楽しみです。
これからは同窓生の仲間としてもお互いに頑張りましょう。     (会報鴟尾23号原稿より)

                                         

22年経過した高校生の人権意識の変化 2012.11.18
  22年前に本校が担当になった公開HRのために実施した意識調 査をhttp://www.page.sannet.ne.jp/ matukawa/douwa.htm、まったく同じ内容でもう一度実施してみました。質問項目が現在 では是正されているものもありますが興味ある結果が得られました 。巷間言われているように若者の意識が保守化してきている様子が 窺えるように感じますが如何でしょうか?1990年の調査は高2 生、1クラス分です。今回は高3生、3クラス分、クラスのばらつ きを見るためにクラス別データも載せました。それを勘案すると、 20年たった生徒の意識の有意な変化が見て取れます。http://www.page.sannet.ne.jp/ matukawa/jinnken.pdf
菊菜の花の不思議発見 2012.05.07

 

 庭に作った小さな家庭菜園で菊菜を栽培しました。食べきれなくて残った菊菜は茎を延ばし花を付けました。綺麗な花です、初めて見ました。 ところがこの花不思議です。夜になると花弁が反り返ってしまいます。朝、太陽の光が当たると元のように戻ります。 陽が沈むと花が閉じる例はありますが、反り返ってしまうのは寡聞にして知りません。不思議な花です。

 

補足:前から、夜反り返った状態から、続いて、朝、花が元に戻るまでの観察です。太陽の光に反応しているようです。

 

 
3.11 大地震以後 2011.04.24
  大きな天変地異は歴史の流れを変えることが多い。3.11の東日本大地震は日本の、いや世界の歴史に影響を与えることは必至であろう。
MG9の大地震、自宅の2階でパソコンに向かっている時に遭遇した。それはゆっくりとした長い揺れであった。こんな揺れを体感したことはない。とっさに予想されていた大地震が来たなとその瞬間思った。階下のテレビに映し出されたその後の実況は想像を絶する大津波の来襲映像、これはフィクションではないが、フィクションのような現実に驚愕した。
とんでもないことが起こっている! 震えが止まらなかった。
 結果的には、日本有史上最大の大地震、その体験者になってしまったのだ。
天罰だといった馬鹿な政治家がいたが、この地震の付録で起こった福島原子力発電所の「想定外」の被災は、これから原発依存を高めようとしていた矢先に天が冷や水をかけたことは確かである。
被災に会われた人々には言葉はないが、別の見方をすれば、こんなことでも起こらない限り原発の危険性は一部の人たちは分かっていたとしても、人々に認識されず、計画通りに不完全なこのシステムが世界中に広がっていく既成事実が進行したと思われる。
そのあとでは取り返しがつかないことになったはずと思うと、偶然とは思えない歴史の意志(神の采配)を感じる。

 

  最近書かれた(編集された)2つの資料がある。一つは2010年に文部科学省と経済産業省・資源エネルギー庁が共同で作成して発行した原子力教育推進のための小、中学校、教師用の副読本「わくわく 原子力ランド」と関連文書である。
もう一つは、岩波書店『世界』2011年1月号の特集「原子力復興という危険な夢」の諸論文である。
前者の「わくわく原子力ランド」の方は、3.11の福島原発事故の後当局で削除されてしまったが、京都女子大小波先生の配慮で以下のサイトで見られる。
http://ruby.kyoto-wu.ac.jp/Files/Dokuhon2010/
  後者の岩波書店雑誌「世界」の記事の方は、3.11以後、社の好意で次のサイトに無料公開されている。http://www.iwanami.co.jp/company/index_i.htmlこの中で、マイケル・シュナイダー/田窪雅文訳「原子力のたそがれ──米・仏・独のエネルギー政策分析から浮かび上がる再生可能エネルギーの優位性」 の内容は今後のエネルギー政策を考えるうえで示唆に富んでいる。特に、削除された原子力ランドと読み比べてみると考えさせられることが多い。
 「わくわく 原子力ランド」は、国策を受けて編集されただけあって、示された資料,解説は平易で分かりやすい。何事も起こらなければ、この教材で洗脳された児童、生徒が大人になったときは、原発は後戻りできない地点にまで行っていただろうと思うと、今回の事故は高い代償を払わなければならないとはいえ、日本の未来にとって良かったと思える。
原発ありきの時は、それ以外の選択肢を力づくでねじ伏せていたけれど、謙虚に見直してみれば、いくらでも知恵が出てくる。それを示唆しているのが、シュナイダー氏の論文である。
3.11の後、一方はWebから削除せねばならない憂き目になり、もう一方は、多くの人の目にふれ、人々に影響を与えるようになる。
 天の意志を感じる所以である。

 

補遺:懸念

 天変地異は時として歴史の悪い転換期にもなりうる。 MG7.9の関東大震災は1923年 その後 治安維持法は1925年 金融恐慌は1927年 第1次山東出兵1927年 柳條湖事件 満州事変 1931年 …真珠湾攻撃1941年 
大震災と政治的混迷、経済不況、このような時には人心は強権力を望むようになる。条件はそろい過ぎている。いまこそ歴史の教訓を忘れてはならない。
八重椿の花の突然変異 2011.04.04

 庭の八重椿に花が咲きました。良く見ると変なんです。花弁の間から雄蕊が出ています。調べてみると突然変異なですね。それも最近発見されたABCモデルという変異。花弁が出来るはずが雄蕊に変異したのです。

   

 

補足:今年(2012年)は、このような現象は見られませんでした。突然変異の起こる原因は気象条件にあるのでしょうか?

 

ドライアイスの白煙へのこだわり  2011.01.16

 文化祭で液体窒素が余ったので、いろいろな液体(有機試薬)を放り込んで楽しんだ。当然どれも白煙が生じます。特にヘキサンを投じたら見事な白煙が・・・・ドライアイスを水に投じたときに発生する白煙そっくり。
液体窒素の沸点は-196℃ この白煙は温度から考えて液体ではありえません、固体微粉末です。                      

 これで、ふと思いついだのですが、共通してみられるこの白煙は光の乱反射なんですね。乱反射するには固体でなければならないんですよ。あの当時、このことには気付きませんでした。
 乱反射は固体でしか見られません。考えてみれば、それだけでドライアイスの白煙は固体の微粉であると結論付けられたのです。
霧(液体)もミュー散乱で白く見えるけれど、乱反射の白色とは質的に異なります。また、霧ならば光の角度によっては屈折による虹が見えますが散乱の場合は虹は見られない。まさに目から鱗です。

翻訳用語 化合 について  2011.01.05

 

  化学用語は外国文献の翻訳の過程で多く作られていますが、化合、化合物という用語について少し疑問に思いました。辞書で調べると、化合は(chemical) combination 化合物はcompoundです。日本語では両者はとても似ていますが、英語では全く違うことに驚きです。日本語では、後者の「化合物」は「化合」が先にありそれに連動した形で作られたものと考えられます。フランス語、ドイツ語、など殆どの言語で英語に対応したものになっています。中国語は日本と同じ「化合」です。
 ところで日本の翻訳化学の原点である舎密開宗には、この用語は出てきません。「化合」する意味のことは「和す」あるいは「和合」となっています。当時は「舎密」と音訳していたのだから、chemistryに対応する化学という翻訳用語がまだ生まれていなかったからだと推察できます。だから、溶庵は「化合」という訳語は思いつかなかったのでしょう。「化学」という翻訳用語は実にうまくできていると思うがいつごろ誰が考えたのでしょうか、知りたくなった。ご存知の方がおられれば教えてほしい。

  

その後:自己フォロー

 いろいろ辞典を調べていたら、化学という用語を日本に導入したのは、兵庫県三田出身の川本幸民であることが分かった。彼は英語に堪能していたが、ユリウス・ステックハルトの 『Die Schule der Chemie』 のオランダ語版を日本語に翻訳して、その際、中国で使用されていた「化学」の語を用いて『化学新書』という名で世に出したのが初めてということらしい。

 中国古来から独自であった単語のなのか、あるいは、西洋の書物の翻訳過程で造語されたものなのか新たな興味が湧いてくるところである。

 日本では対応する言葉が見つからず、宇田川榕菴オランダ語化学を意味する単語「Chemie」を音写して当てた言葉、「舎密」を使っていたわけであるが、これに比して中国ではすでに「化学」を適用していたのは流石、漢字の国、感心せざるを得ない。

 

ドライアイスの白煙のこと  2010.12.24
 

 ドライアイスの白煙の正体については、世間で一般に信じられていた水滴(霧状)ではなく氷微粉末であるという証明をi以前に発表した。当初、結論があまりにも意外であったためにわかには信じてもらえなかったが、奈良理化学会誌に投稿後、日本理化学会の紀要研究紀要 日本理化学協会( 402008pp113117)に採択されたり、数研の出版のサイエンスネットに紹介されたりして徐々に認められるようになってきた。

 僕がドライアイスの煙の正体に疑問を抱いた当時、ネット上で見られる見解は水滴(霧)説であったが、その代表として、学研サイエンスキッズ、科学なぜなぜ110というサイトにドライアイスの煙は水蒸気が冷やされてできた水滴であるという解説があるのを見付けていた。。学研は子供科学誌の権威の老舗、そこが掲載しているからこそ、当時はこれが世間の常識だったと認識した。世間の常識を覆すことに一人で立ち向かうことに身震いを感じたのを覚えている。

 僕がドライアイスの白煙の固体微粉末説を発表してから2年以上も経っているのに、このサイトの記述が変更されていないのは知っていた。科学大好き子供相手のウェブ故、次代を担う子供たちに間違った刷り込みがなされることに懸念はしていたが、わざわざこちらから申し出るのもお節介と思って放置していた。ところが、HPに掲載している僕の論文を読み、認めていただいたある読者から、「やはり、学研さんには誤りを指摘してあげるべきだ」とのご意見を頂いたので、考え直し係りの方に連絡をした。

 僕の結論が結論なだけに、こちらの指摘に学研の担当者は最初は相当戸惑われたようだが、参考論文を紹介してそちらでの検討を依頼した。しばらくたって、論文内容を会社でも鋭意再検討するということで、それまでは一旦このサイトは閉鎖処置をとられた。

 相手は、老舗の子供科学系雑誌の出版社であるだけに、真っ向からの僕の間違い指摘にのような反証ががなされるのだろうかとちょっとドキドキ興味があったが、なかなか結論は出てこなかった。

 待つこと4か月、ようやく一応の結果が出てきた。水滴説は一部残るものの大筋では僕の固体説を入れた説明に書き換えられることになった。参考文献として僕の論文も紹介されている。これで、また僕の固体説は真理に近づいた。

 ドライアイスの白煙の正体探しでは、科学することの面白があった。常識はずれの結論なだけに最初は誰にも信じてもらえなかった。

最初の敵は、「家内」 。ドライアイスをコップに入れて煙を見ている僕に冷たい視線。科学教育では一家言を持つメンバーが属するとある科学系MLでも意見を発表したが最初は信じてもらえなかった。その場で最終的には異論が出なくなったので自信を持ち世間に公表するべきだと考えた。最初に投稿したのは、日本化学会「化学と教育」誌であったが、半年も待たされた挙句、査読氏が内容については判断する能力がなかったようで、投稿形式論の不備を理由にで門前払い。それで方向転換し色々な方面に依頼して論文掲載をさせていただいた。そのおかげで、徐々に認められてきて今日に至っている。科学は権威ではなく事実で判断されるべきであるが、途中はそうでないことも経験したが、最終的にはそれが貫徹されたことは嬉しい。世間でもほぼ定説になってくると確信している。

ツクツクボウシはいつ鳴くの?  2010.08.23
 

 今年の夏は、ことのほか蝉の発生が多かった。種類はアブラゼミ、クマゼミ、ツクツクボウシの3種類である。それらの蝉の鳴く時間が違うことに気が付いた。クマゼミは午前中のみ、アブラゼミは午後からである。アブラゼミは気温によっては夜夜半まで鳴くことがある。

 クマゼミの鳴き方は凄い迫力である。アブラゼミも結構うるさい。それに比べてツクツクボウシは小さい鳴き声だが特徴的な高音であるのですぐわかる。

 最初、クマゼミとアブラゼミが午前と午後と鳴き分けているのに気が付いた。何故だろうと思いネットで検索調べてみると、鳴き分けがあることはウキペディアにすでにみられ既知であった。理由を知りたいところだがそれについての記述は見当たらない。しかし、そこでツクツクボウシについても鳴く時間が決まっているという記述にであった。アブラゼミとほぼ同様午後の時間ということである。ところが、我が家の周りのツクツクボウシは午前も、午後も鳴いている!!確かに鳴いているので、この文献の知見が誤っているとしか思えない。それとも、今年の暑さでツクツクボウシに異変が生じたのだろうか?

あるデータから‐継続することの大切さ  2010.08.15
 

 僕は毎年同じ施設で健康診断を受けていて、36歳からの25年分のデータはすべて保存してある(一覧表はここをクリック)。表中空欄は検査をしていないが、体重欄の36歳から49歳の空欄部分はだいたい65kgで推移していた。1996年から検査センターの器機の入れ替えによってALPの単位やGOT,GPT、γーGPTの値の基準値が若干高めに変わっている。この血液検査を見ればおおむね良好に推移している事がわかる。ただ、

 肝臓機能は、30歳の頃に実験の不注意からクロロフォルムによる軽い薬物急性肝炎になったがその後は完治してしている。毎日ビールを1本程度欠かさず飲んでいるが、γーGPTの上昇も見られない(1996年以降の高値は測定機器の違い)。腎機能も正常である。家系的には循環器系にやや弱い傾向あることは自覚している。 やや高血圧傾向にあり、コレステロール値が高い。

 成人病の危険因子といわれる糖尿病、高血圧については注意している。タバコは30歳でやめた。喫煙していた20歳代の体重は約55kgで推移していたが、禁煙によって65kgに増えた。

 41歳のころから、ほぼ毎日2km弱をジョギングすることにした。それ以前のデータがあまりないのでジョギングの効果はデータからはT-Gがやや低下した程度のことしか伺えない。ただ体重はやや増加傾向にあったのは覚えている。50歳の頃それまでのズボンがはけなくなってきたことからあまり効果はなかったようだ。ジョギングもこの体重増加の為、足の関節を痛めたので、53歳の半ばで断念しなければならなくなった。

 そこで、2003年9月(54歳時)にフィットネスクラブに入会、始めたのが水泳である。だいたい毎日夕方1.5㎞は泳いでいる。泳いだ後は10分間サウナに入る。これを始めてかれこれ8年目になるが、表を見れば明らかなように、ここからの検査データの改善は顕著である。体重の減少(67kg→57kg)、HDL‐CHOの増加(59→91)、血糖値の低下(フルクトサミン。HbAlc)等、特に成人病関係のデータの改善が有意的にみられることがわかるだろう。ズボンも20歳代のサイズがはけるようになった。体重が10kgも減ったのだから足、腰の負担は軽減されるので、体は軽い。医者に行くのは花粉症の薬をもらうくらい、ほとんど医者いらずの生活を過ごしている。

 大切なことは、いかに持続できるかである。持続する秘訣は決してやりすぎないこと。泳いで風呂に入ってトータル1.5時間程度、自分の1日の生活サイクルの中にこの時間を取り込み習慣化させることが肝要である。身体に良いからと人に勧めても、続けられる人が少ないのは残念である。続けることは自覚しかないののだが、気が付いた時には手遅れなのにね。

 

Homoeopathy  2010.08.12
 

山口新生児ビタミンK欠乏性出血症死亡事故で、一躍知られるようになったホメオパシーであるが、単純な疑似科学の一種と思っていたが結構根が深そうだ。

 医学が科学的方法ですべて括れるのかというと難しい分野も残っている所に問題がある。それは精神心理分野である。学問分野も心理学は文系に属し、精神医学とは一線を画し独自の活動をしている。。未知の分野は科学のメスでこれからもどんどん解明されていくとは思うが、まだまだ解明できていない分野もある。そこの部分に入り込んでいるのが ホメオパシーなのだろう。

 調べてみると、ドイツ人医師サームエル・ハーマネンによって始められ、200年も続いているらしい。医療行為とし認めているて国もあるようだ。 ホメオパシーでは、一般的に小さな 砂糖粒に有効物質をごく低濃度染み込ませた、さまざまなレメディーと呼ばれるものを服用すると、いろいろな病気に対応できるという。しかし、有効成分は科学的には限りなくただの水に近いという。 この点が、疑似科学と批判される所以である。

 

 ダダの水で思い出したが、昔、丸山ワクチンという抗がん剤があった。開発者の東京医科大の丸山先生のところには患者さんが列をなして押し寄せた。厚生省は認可しなかったが、国会議員まで巻き込んで厚生省に圧力をかけたものである。結局、未承認を黙認することで多くの患者さんに販売された。

当時、僕は抗がん剤の開発に従事していたので、この丸山ワクチンなるものもを手に入れて分析してみたが、結核菌から抽出したといわれるA,B2種類のアンプル液からはほとんど成分が認められないただの水、レメディーに近かったのである。

  医薬の効果は抗生剤や鎮痛解熱剤、麻酔薬など明確な薬理作用が分かっているものはあるが、実際はあいまいなもある。厳密な臨床試験をしてその薬効を認めたはずの薬にあっても、さんざん使われた挙句、効きませんでしたと無効とされ承認が取り消される薬があるのだ。普通の商品では訴訟になるのに何の咎めもないのが不思議な業界である。 何故効かない薬が、承認されてしまうのか。こは裏は色々あるが、薬にはプラセボ効果が結構あるからである。心理的な要因が大きい。ちゃんとした製薬メーカーだって、この点では大きな顔はできない。

 僕は、ホメオパシーを擁護するつもりはない。ホメオパシーを推進している人たちは信じての確信行動なのだろうし、それを信じなければならない気の毒な事態に陥っている人々が一定限度存在するのもこれも人の世の常、注意喚起すれども当事者同士が納得づくであるならば、事件にならない限りは自己責任、許容せざるを得ないのかなとも思う。宗教に似た難しい問題である。それにしても、冒頭の裁判、裁判官が気の毒。

 

 

面白い比較試験  2010.08.08
 

 僕は私学で化学を教えている。中高6年間一貫校だが、理科については中学で高校範囲を先取りするのではなく、高校1年から検定教科書に沿ったカリキュラムで授業を進めている。学年における教科担当はその都度決めるが、高校はだいたい3か年を持ちあがる場合が多い。高校1年度、1学期についてはだいたい教える範囲が一定であるので、2004年度、2007年度、2010年度と最近持った3学年で、1学期の期末テストで、採点基準も同じにした全く同じものを課した。その結果が表にあるデータである。対象の生徒が入れ替わっているだけで、その他の条件は教えている僕が歳を取っている以外はほぼ同じ授業をしている。この表で在来生とあるのは、中学からの入学生、編入生とあるのは高校編入組である。在来生4クラス、編入生1クラスであるが、2004年度は都合により編入生クラスはもっていない。 教える側として条件が若干違う点は、2004年度、2007年度は校務分掌の仕事をしていたので、この学年は高校1年から高3まで化学の授業だけのかかわりである。2010年度の学年については中学3年次から担任団に加わったことと、高1では編入クラスのクラス担任でもある点であるである。

 在来生のみを比較すると、2010年度が有意に高い平均点を得ている。これは、中3から学年団に加わり授業を受けたことが影響しているものと考えられる。

 編入生の場合は、僕と会い見えるという点では、高1からの3か月あまりの短い体験なので条件は全く同じである。にもかわわらず、2010年度のほうが1割近く好成績である。何故なのだろうか?

 この点について確定的な結論はこの例だけでするのは無理だろうが、担任効果というものがあるように思う。このことは教える側に重要な示唆を与えている。馴染みを感じたほうが学習意欲が湧くということを示していると考えられる。もっとも、このことは教える側にも無意識に働いているのだろう。

 ただし、高1時点での化学の得点が将来の成績とどのような相関があるのかについては、2004年度と2007年度の大学入試結果を見る限りでは何とも言えない。2004年度の生徒の3年後の大学入試現役合格は、在籍215名中、京大、東大等国公立に119名、総合計系が137名に対し、2007年度の場合は、在籍215名中、国公立に113名、総合計が129名とほとんど違わない。実はこの数字はここ数年どの学年もあまり変化はないのである。といういう観点から見ると、今年の高1の化学が有意に高得点だからと言って3年後の入試結果が良いという保証は全くない。

 入試は総合点で決まるので当然といえば当然であろう。教える側としてはちょっと残念だが、こと大学入試化学などは化学の実力というよりも「入試化学」として割り切れば、誰が教えて大同小異、高3次に類似演習問題を熟せさえすれば高得点が取れてしまうところが問題かもしれない。

 教える側としては、大学入試だけを考えた授業ではなく、将来に役に立つ「科学」の面白さを伝えたいと思っているのではあるが、それに応えてくれる生徒が年々減っていくのは残念である。

 

ずっと昔  2010.08.07
 HPを開いたのは1996年8月1日から。日本でWNDOWS95が発売されたのが95年の暮れ、僕がPCを買ったのが96年3月だから日本ではかなり早い時期になる。その頃初めて書いたのがこのBlogspotの前身、「うとうと」シリーズ。最初の文は、教師のしごと それ以降すごい勢いで書いていたもんだ。当時は自由に自分の意見を未知空間に発表できる興奮を覚えて高揚していた。これは15年の歳月が凝縮している自分史でもある。いま読み返しても面白い。紙に書いていたものはよほど大事なものでないと年月がたてば失われてしまったが、HPは駄文であろうがなかろうがすべて残っている。駄文も年月が経つことによって古代の木簡のように違う意味で重要文書になる。当時の心意気を思い出して、この自分史を自分に生きた証として命の続く限り延ばしていきたいと思う。
ある20号
 

 行きがかり上、僕は母校の同窓会の事務局をやってきた。1991年に会報をつくることとし、毎年1回発行してきている。編集(長)的な立場でほとんどの会誌を編集してきたが、それが今年で20号を数えるようになった。

 20年前は、原稿は手書き、印刷も活字であったが、今はほとんどが電子化、原稿はメールでやり取りができ、海外にいても国内となんら変わらない手間で原稿のやり取りができ、作業は圧倒的に簡略化されてきている。

 出版にかかる費用も当時と比べてほとんど変わらない。会誌の配布に関する郵送料に関してはメール便を使えるのでむしろ安くなっている。自意識的には変化が連続的に起こっているので、大きく変わったという認識が持てないが、20年という単位でみるとやっぱり長かったのだなあと思う。

 創刊号からのバックナンバーを1冊に綴じているが、それぞれの号に思い出がありつい昨日のように思い出される。しかし、かって執筆を依頼した人のうち、何人がすでに故人となられていることを考えると、改めて時間の経過を思い知る。

 長くやることは必ずしもいいことだけではないことを最近味わった。世代のずれは如何ともしがたい。自分も若いときには年寄りの気持ちが分からずいろいろやってしまったが、順繰りに舞台は回っていくのだなあと思う。

 今回執筆陣のなかで最高齢者のH先輩と、メールでいろいろ昔話に花が咲く。

twitterのこと

 流行のものは食わねばならぬと人に勧められるままtwitterなるものを少し試みた。簡単に登録できるのですごい勢いで増殖している。使用方法や関連する事柄については検索するといろいろなものが出てくる。フォローをお互いしあうことによって人の輪が無制限に広がっていく仕組みでである。

twitterは「つぶやき」ということで、字数制限があり多くは書けないが、個人が勝手につぶやけばいいのである。ここに参加している人は、twitterに何を期待するのかはその人の自由ということになる。フォローされている数が多いということは、それだけ多くの人に支持されていることになるのだが、この数字が実は訳が分からない。この世界では、フォローされる数を上げることだけに目的化した人が結構いる。フォローされる数を上げる手ほどきをして飯を食っている人がいるのにも驚いた。

 普通の人がフォローされる数を上げるには、見境なくフォローしまくればいいのである。フォロー返しといって、相手の何割かはフォローしてくれる。そうして相互フォローの数を増やせばいいのである。現在万単位でフォロー数をもっている人の多くは莫大な時間を使ってこの操作をした結果なのである。当然、内容なって読むはずはない。フォロー数を上げることだけを目的化した人たちだからである。

 だから、ほとんどの内容は実にくだらない。もっとも当初から読まれることも読むことも双方ともあまり期待していないからこれでいいのである。

 twitterが有効なのは政治家や個人商店さんであろう。ただ、政治家にとっては両刃の剣である。twitterはつぶやきというように有名人が身近でつぶやいてくれているような錯覚を起こさせるので、親しみを感じさせる効果はあるであろう。個人商店や自営業の人にとっては、使いようによれば顧客の囲い込みには効果があると思う。人によっては出会いの切っ掛けになる可能性はある。

 しかし、しばらくやってみて人よりは短期間にフォロー数も500程度まで増やして見たが、これに関わってこちらがかけている時間と得られる効果を考えてみると、僕の興味ある分野での有用な情報には乏しくともどんどん流れてくる情報が目に入るとそれなりに反応してしまいtwitterオタクの世界に時間的にも精神的にもひきずりこまれている自分に危うさを覚えた。今までの関係を遮断するために一旦退散することとした。

 

 

救急救命

 職場で、心肺蘇生が必要な場面に遭遇しました。現場到着時、原因不明で意識なし,心肺停止状態。後頭部打撲のためと思われる出血あり。僕も加わりましたが、救急隊が来るまでの15分間、心肺蘇生、人工呼吸処置。初めての実践であったが、同僚の1人が講習を何度か受けていたこともあり、彼の手による手際の良い心肺蘇生術、心臓圧迫による人工呼吸の有効性を目の当たりにしました。救急隊の隊員も驚かれていたそうです。

 転送先の病院で一命は取り留められたと言う嬉しい報告がありました。AED心肺蘇生の講習は一応受けたけれど、咄嗟にはうまくいきません。訓練の重要性実感しました。

平城宮跡どう読むの?

 僕は平城宮跡のすぐそばで生まれ育ったが、昔は「ヘイジョウキュウし」と地元民は言っていた。マスコミに取り上げられるようになって「ヘイショウキュウあと」や「ヘイジョウキュウせき」平城宮趾(跡?)(址?)と読んでいる。

 僕は違和感があるのだが、統一した呼び方は無いのかな。

同窓会

 2月にあった同窓会の写真と名簿が幹事さんから送られてきた。同窓会といっても還暦を記念して20年ぶりに開かれた、今回が2回目である。それも1961年度平城小学校卒の同窓会。

 実は、この小学校は4年の1学期までしか僕は在籍していないので、正確に言えば卒業生ではない。家の転居で隣の校区の小学校に転校したからである。50年以上も経って宅地開発が進み付近の光景は一変し昔の面影はなくなったが、昔は絵に描いたような典型的な田舎の小さな小学校であった。しかし、校名から分かるように創立は古く100年を優に超えている。4年までしかいなかったが、僕にとっては出生の地でもあり転校した次の学校より思い出は多く愛着はある。

 2クラス80名程度の学年であった。途中で転校したのはたぶん僕ぐらいしかいなかったのだろう。忘れずに、そんな僕の消息まで探し当てて同窓会に呼んでくれたというのは嬉しい限りである。

 同窓会は大中小と色々あるけれど、あどけなく純真だった人間関係にあった小学校の同窓会が、この年になってみると原点回帰というのか、もっとも同窓会らしい気持ちにさせてくれる気がする。

 写真とともに送られてきた名簿を見て驚いた。幹事さんがよく纏めてくれたと感謝するが、83名のうち不明者が10名である。昔は小さな田舎の小学校であったがゆえの結果とは思うが、親の戦争疎開でたまたまこの地で生を受けた根無し草のよそ者の僕にとっては、良きにつけ悪きに付け人々の移動が少ない地縁血縁が綿々と続いている村落共同体の存在が伺え興味深い。

 亡くなった方が、5名、これは平均的である。

潮時

 60も過ぎると、潮時ということが気になる。TVなどで活躍している人たちを見るといつの間にか大多数が自分より年下だ。天下国家を論じている元気の良い政治家たちもほとんどがそうである。否応無しにこの世の中は順繰りなのに今更ながら驚いている。

 我々団塊の世代は、良きにつけ、悪しきにつけ、いつの時も対象相手は年上の世代であったような気がする。それが、知らぬ間に下の世代にとっての批判の的になっている。何かしら後から突然鉄砲で打たれているようである。このような事態を予想だにしなかったので、今更ながら体力気力の峠をとっくに超えてしまっている現状にあっては、万事休すである。もう、潮時悟る時かなと思う。

blog再開
 本日61回目の誕生日。ブログ新装再開!!

 DREAMWEAVERを使う必要にせまられた。最近HP作成のソフトの進化に伴い、誰にでも簡単にHPが作成できるようになったが、そのことが却ってHP作成意欲を削ぐという皮肉な結果になっていたようにおもう。DWはソース編集が基本で、一寸骨はあるけれどやってみれば段々スキルは高まり結構はまる。ただ、以前と違うのはこちらの記憶力が昔とは随分低下していることた。

 考えてみれば、最初にHPをあげたのは1996年8月1日、いつの間には14年も経ってしまったのだから、生身の老化は隠しようもない。今後は、老化防止のためにもなるので、ぼちぼちDWを征服してみたいと思っている。