教育について考えること


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(since:1.Aug.1996)

 

 

目次



医学部入試改革案

医者が儲かる職業になったためか、近年医学部には多くの志願者が殺到するようになった。

受験競争の最後のゴールとして適性を無視した選択がなされていると受け入れ側の医学部も気付き出した。

医学部に送る高校側から見ても、その中には必ずしも医者としての適性を考えた進路決定と思われない生徒も少なからず存在する事は認めざるをえない。

現在実際に行われているペーパーテストでの選抜では、客観的評価という点では優れているが、教科テストの偏差値の高さのみで選別しているので適性までは読めない。

だからといって、一部の医学部で行われている面接試験は別に書いたように主観情実が入りやすく、客観的評価(公平さ)という点では問題が多く選別方法としては良くないと考える。

それではどうしたら良いのか。現行の入試制度でも十分可能で、ペーパーテストの客観性を保持しつつ適性もそれなりに評価できる選抜方式の次のような試案を考えてみた。

センターテスト:定員の5倍程度まで絞り込む

2次試験:英、数、理科(物理、化学)、小論文を課す。

工夫はこの2次試験にある。先ず最初に英、数、理科(物理、化学)の教科テストの採点集計を行う。答案は400枚ぐらいなので丁寧に採点しても2日もあれば十分であろう。この教科テストで2倍から3倍程度に絞り込む。この時センターテストの点数を取りこむか否かは大学の自主性に任せる。僕は取りこむ場合はできるだけ低い割合が望ましいと考える。(150人程度になる)

小論文は、この絞り込んだものだけ採点する。小論文の採点に当たっては先の教科テスト,センターテストの結果や個人情報は採点者にわからないように行う。

小論文のテーマは思想性を問うものなどはダメだが、時事的な科学的問題を論じさせるだけでも十分判断できる。

短時間に簡潔に問題点を整理して文章化できる能力は、ペーパーテストでは分からない

人間のバランス能力を反映しているものであると、日頃、HRなどで生徒に文章を書かせている経験から言える。

1,200字程度の小論文なら、150人分ぐらいの採点は、1週間もあればできるであろう。

(最も現在いる採点する側の教授がすでに世間知らずのバランスの欠く偏差値人間ならどうしようもないが)

配点は、教科テストと小論文50:50ぐらいが望ましい。

このように個別に採点したものを集計して上位から定員まで合格とすれば良い。

小論文の採点にはかなりな労力を必要とするが、これまでの選抜方法の欠陥はこれでだいぶ是正されるものと考える。

99/03/28

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教師の資格と資質

正確には忘れたが、数年前から大学の教職課程が変わり教職の必須単位が増えたため、教育大学以外では教職の資格が極めて取り難くなった。

表向きは教師の資質向上が理由らしいが、実は、子供の数が減ったのと、女教師の退職が激減し、その為新任教師の需要が激減したことと、今までの制度では、一応資格だけは採っておく人が増え、教育実習をこなすことが教育現場でお荷物になってきたことなどの理由らしい。

特に、新任教師の採用枠が減ったので、教員養成系の大学が自分たちの権益擁護の為に一般大学からの流入をはばむ為に画策したと思われている。

今までの教職課程は、戦前の国家による教育の管理を反省して(戦前はいわゆる教員養成の師範という限られた所から教師になったので、人事面で教師の思想統制管理が行き届いた)、一般大学からも広く人材を集めることを可能にした制度であった。

この理念はすばらしいものと思う。したがって、理念上からは何も制度を変える必然性は見つからない。

にもかかわらず、教育実習生受け入れの現場のわずらしさを前面に立て、さほど議論もされず現行の改悪がなされてしまったのは拙速としか思えない。

制度の改悪の効果は抜群である、それまで我校では、毎年京大や東大などから10人以上は卒業生の実習を受け入れていたものがほとんど来なくなってしまった。

したがって、今では教職の資格を有するものは、戦前と同様、特定の教員養成系の大学卒で占められつつあると思われる。

教育で問題が起こるたびに、教員の資質の低下が言われているが、教員の資質とはいったい何をさして言っているのであろうか。

教育に関する科目の単位を多く取ったものが、果たして資質があるといえるのだろうか。

僕の経験では、大学での教育に関する科目(教育原理や心理、道徳教育の研究等)は何にも役には立たないし、資質とは何も関係ないと思う。

逆説的に言えば、あんなくだらない講義をまじめに受けて優をもらう学生を採用するからだめなのだと思うくらいである。

いっそうのこと、ある程度のレベルを認定した大学の卒業生には全員資格を与えたらどうだろう。

教師の資格にとって、2週間くらいの実習をしたからどうのということはなく、また、教師という職業内容は、すでに生徒としての視点からではあるが知っているので、ほかの職業に比べると、あらためて体験させる必要性はそれほど認められない(たとえば、司法試験の受験資格に実務経験はない。合格したもののみ後で修習生として研修するではないか)。

したがって、実習単位なんかは廃止をしても何等差し障りはなかろう。そうすれば、教育現場からの反対する理由もなくなり一石二鳥である。

こうすれば、有資格者が格段に増えて、採用する側から見てもさまざまな人材の中から、優秀な人を採用されることになるのに、どうしてそうしないのか不思議でならない。

今の教育界には、実はそうしたくない別の理由があるとしか思えない。

なみに、僕が教職をとったのは、専門教育科目が、

教育原理2単位、教育心理2単位、理科教育法3単位、教育実習1単位、道徳教育2単位の計、10単位である。

それが現在では

教育原理T 2単位、教育心理T 2単位、教育原理 2単位、教育の方法及び技術 2単位、教科教育法 2または4単位、道徳教育の研究 2単位、教育課程論 2単位、生徒指導論 2単位、教育実習 2単位の計 18単位または20単位

それに専門科目でもコンピュータ科目が必須になっている。

そして、それにも増してこれからは教育実習を倍の4単位(4週間)にしようとしている。

そうなれば、東大や京大阪大などの一般大学出身の教員はほとんどいなくなってしまうだろう。

いかに生徒に興味を持たせ、学習効果を上げさせる事を目的として増やされたこれらの単位が、ほとんどの大学では、皮肉にも出席点の脅しでしかでしか学生を引き付けられないくだらない講義とくれば、そんな事に貴重な時間を取られる学生がかわいそうである。

(1997.3.28)

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センターテストを廃止しよう!

1979(昭和54)石油ショック以後の経済不況による政治混乱のどさくさのなか、多くの反対が有りながらも、エヤーポケットにはまり込んだような奇妙な政治状況で、文部省がしたくても戦後なかなかできなかった一斉テストが、教育の正常化を大儀名文に導入されてしまった。

爾来20年余り、共通一次試験からセンターテストへと引き継がれたこの一斉テストは、日本の教育を改革するどころか、偏差値教育を徹底して推進させ、教育現場を限りなく混乱させてしまっている。

教育改革には、何の成果も挙げられないどころか、大型コンピュータのはじき出す偏差値に振り回される状態に陥れ、結果、大学受験は大手予備校に完全に支配されてしまった。

このコンピュータのはじき出す偏差値は、大学から幼稚園にいたるまでその序列化をますます助長、顕在化させた。そのために、以前にもまして、激しい、受験競争を引き起こしている。

センター試験の科目間の難易の相違は、今年に限ったことでなく常に不公平感をぬぐえない。

また、この難易の相違が受験生の心理に大きく寄与し、必要度よりも点の取り易い教科に選択が誘導されることが、高校のカリキュラムに大きく悪影響を与えている。

今回から、新たに導入されたアラカルト方式は、訳のわからぬほど多くの科目を導入しさらに教育現場の混乱は拡大された。

選抜試験に使われるのに、同じ教科で難易の異なる複数の試験問題を作る必要があるのだろうか。

理論的にも不可能な制度であるのに、なぜ、こんな無茶なことがまかり通るのだろうか。

下衆の勘繰りでは、こうして得をするのは、文部官僚天下り先としてのセンター職員増加と予算の肥大化の理由づけしか考えられない。

教育には害はあっても何のメリットもないのに、官僚組織の自己増殖の為に利用されるこんな制度は、行政改革で真っ先に廃止するのが筋ではないか。

(1997.2.7)

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教育改革と道徳教育について

もって行き所のない大衆のフラストレイショーンのはけぐち提供という一種の政治テクニックであるのか、政治が行きずまるようになり、世の中がなんとなく無目的で不安定になってくると、決まって教育の問題がクローズアップされてくる。

教育に関する問題は、すべての人が共通体験に基づいて発言出来ることから参加し易い点があり、国民的課題として案外気楽に議論を楽しめるからだろう。

今回も教育改革に託けて、またぞろ道徳教育の必要性が叫ばれている。

金権主義から若者の礼儀知らずオームまで、この国を悪くしたのは、知識偏重の教育がもたらした結果であるというのが主な理由である。

教育の王道から外れた知識偏重詰め込み教育に対峙する本当の教育とは果たして如何なるものであるのか。

それに対しては、明確な答えもないままになんとなく「教育は人間世界で起こる全てのことを解決させる完璧な方法であるはずだ」という、共同幻想が国民の意識の中に巣くってはいまいか。

この事は、良いように解釈すれば、それだけ教育には期待が大きいと言うことなのかもしれない。

しかし、こういった見方が、教育に関して正しい認識がされず、時代とともに肥大化した理想主義(建前主義)の為に、硬直した教育を真に改革する方向に向わず、教育現場を混乱させ、教育改革を迷路に迷い込ませる結果となる。

(ゆとりの時間、クラブの必修化、内申制度、共通1次、センター試験、家庭科の必修等々)

学校は打ち出の小槌ではない。学校で出来ることできないことを明確に整理してかからないと解決の糸口は掴めない。

道徳教育に関しては、昭和30年初頭から強化されてきたが何の成果も上がっていないことを見ても明らかであろう。

徳育の中心は学校ではなく家庭である。戦前のように、強い国家権力のもとに一つのあるべき型を押し付ける役割を学校に期待するのは時代錯誤もはなはだしいし、それは危険な考え方である。

徳は教えて出来るものではない。道徳教育を推進する人々の要求するものは、それは徳育ではなく、戦前のような既成秩序に忍従をしいらせるような修身の色合いが濃いものをイメージしているように感じられる。

歴史的に見ても、一つの価値観(道徳観)を強要または誘導するような行為を権力が行なった時にはろくなことが起こらない。

学校教育に何もかも押し付けるべきではない。学校教育では、過去に人類が得た知恵や知識を効率良く教え伝え役割が第1義であって、それ以上でもないしそれ以下でもないことを再認識するべきであろう。

高度に発展した近代国家を維持していくためには、人間の知恵を最大限開発していかねばならない。

特に人的資源以外めぼしいものがない我が国においては、知的生産物を武器にしてしか生きていけない宿命にあるのは、文明開化の明治以来変わらぬ宿命である。

今や、科学技術分野ではアメリカにはとうに及ばず、また、アジアの国々の凄じい追い上げがすぐそこまで来ている現実を直視すべきである。

昨今の教育行政を見ていると、余計なことをあれもこれもと取り込んでしまい(なぜ授業時間数が足らないのに、高校で料理までを教えねばならないのか)能力開発という大事なものがないがしろにされてしまっている。

こんな事をしていると、ボデブローのようにじわじわ効いてきて、そのうち我が国は凋落の一途をたどるであろう。

惰性と教科の縄張りで硬直化したカリキュラムを改革しなければならない。

思い切って学校で教えるものを整理し、必須単位を廃止または大幅に削減して、教育の規制緩和を促進して画一的な教育からの自由化を図るべきである。

次に、人々の共同幻想の教育観を根底から打破する為に、敢えて革命的な1試案を提示する。

必要な教科の授業時間数の確保の為、学校の枠組みの中でやらなくてもそれ相応の実効が上がるものはこの際学校教育からは外す。

たとえば、芸術は、学校で強制されてやらされても効果はないし、ましてや点数化して評価される類のものでもない。

芸術分野は、今でもある程度習い事として個人的にやられているように、社会教育として位置づけ、地域の文化センターのような施設を充実させ生涯教育の一環としてやれるようにすればどうだろうか。

(芸術などは3単位や4単位をやったからといって、そう効果があるとは思えない。中途半端なものを義務的にやらされ却って芸術嫌いをつくってしまっている場合もある)

体育等も地域のスポーツクラブを充実して、週休5日制を生かし地域社会で担えるようになれば、学校での授業は理論程度に押さえられるので授業時間は削減出来るし、地域コミュニティーも育ち一石二鳥である。

当然、施設費の割にも実行の上がらない、家庭科は学校でやることではない。

これだけで、カリキュラム上は極めて余裕ができ、今までとは違った教科の指導が可能になる。

最も、体育や芸術を専門にする学校は別だが。

そうすれば義務教育でない高校以上は、高度な専門性を教える学問の場所としてその目的が明確になり、生徒も其のつもりで進学してくるようになるであろう。教師の方も、教科を教えることに専念出来る。

かなり、革命的な提言を敢えてしたが、これは、今までの流れから予想される文部省のいう教育改革が、これとは全く逆の方に進めようとしているように考えるからである。

むかし、貧乏人は麦を食えといった総理大臣が居た。大衆に阿ることなく本当に大事なことは今何かを知って、真の改革(教育だけではないが)を断行するリーダッシプが本当に必要である。(1997.1.16)

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東大理科3(医学部)入試の面接導入に反対

1999年度から東大医学部では入試判定に面接を導入するらしい。

現在の過度に進んだ受験は、東大医学部を頂点にした偏差値の序列化が原因の一つになっている。

現在の受験は、受験することが目的化され、そこに山があるから登るのと同様、最難関だからその適性に関係なく挑戦するゲームと化している観がある。受験テクニックだけの秀才が集まって東大医学部も困っていることは十分理解できる。

今までに理科3類に合格した諸君を、数名担任もしくは教科で教えたことがあるが、大変な難関であることは事実である。

中には、すばらしい素質のために傍から見る限りでは、そんなに消耗もせず合格した例もあるが、一般的には

他を犠牲にした相当の勉強をしなければ入学はおぼつかない。そのためには、目的のためには手段を選んでいられない状況に陥るので、普通の感性の持ち主では到底達成できない領域にある。

(入学した生徒から聞いた話であるが、入学試験場では、関西弁が飛び交い、ある予備校が一本釣りで集めた東大理科3類受験生のための隠れ講座の仲間が多かったとのこと)

東大の医学部がそれほど飛びぬけた学問的業績に優れているとは思えないのに、ただ、最難関だからチャレンジしたい受験生に占拠されてしまっている。

合格することを目的化し、極度の受験競争を勝ち抜いた諸君が、目的を達成した後反動から勉強する意欲を喪失していくのは想像に難くない。

また過度の競争にもまれ、それに打ち勝った人の中には、医者として不適格なものがいるのも事実かもしれない。

それ故、学力検査だけの客観試験を排除し、面接を導入したい気持ちは理解できないわけではないが、それで問題は解決するのであろうか。

理科系が敬遠される時代の中、医学部だけがそれに反して希望者が殺到するのは何故であるのか考える必要がある。

その理由の主なものは、医は仁術でなく算術になったからである。医学部人気が異常なまでに高くなってきたのは、武見太郎がのごり押しの結果、医者が儲かる職業と認知されるようになってきてからである。

その中枢にあるのが、東大医学部であるのは、昨今の厚生省の汚職を見ても明らかなように東大閥が中心の働きをしている。

新薬開発における厚生省と医者と製薬企業の癒着は、東大閥で固められているのが、この道では常識である。

この利権構造を是正しないで、入試制度だけを変えて問題は解決するとは思われない。

下衆の勘繰りかもしれないが、利権構造の中枢にいる人たちに、面接という主観的なあいまいな試験をさせて果たして公平な評価がなされるのであろうか。

利権構造を是正されない金まみれの医療現場において、このような不正が発覚しにくい制度導入は、不正が発覚しにくく、闇の世界の天下になるのではないか。

教師として経験的に、面接試験の比重の高い医学部大学入試において、日ごろの成績からは腑に落ちない疑惑の残る結果に出くわすことがあるのだが、人物で評価したと言われればどうしようもない。

医者が儲かる職業である限り、利権が独占、世襲化されていく可能性がある。

今の制度においては、利権構造の中枢にある東大医学部に、それに連なりたいと欲する人が殺到し、その結果、医者として適格な人材が採れないのは自業自得ではないか。

だからといって、客観的評価の現行制度を止めるのには上記の懸念から絶対反対である。

とかく不平等なこの社会にあって、明治以降、大学入試だけがいくら権力者であっても、金持ちであってもどうしようもできなかったことが、日本の社会での開放性と人材発掘に果たしてきた意味は大きい。

現在では、一部私学の医学部では明らかにこの平等性は犯されつつある。

結局、東大もそれに追随することになり、やがてはすべての大学学部に広がるであろう。

入試はあくまで客観的に行い、機会均等を誰にでも納得できるシステムで行なうべきである。

入学してから大学の責任で、不適格者を学内制度で篩にかければ済むことではないか。

面接は人がする限り、腐敗を生むのは明らかである。短絡思考の改悪には反対である。

医大入試面接官に報酬

やはり、心配していたことが早くも露見した。香川医科大推薦入試で受験資格の無い生徒が受験を許可され合格していた。しかも面接をした教授は受験生の家族の経営する病院から報酬を貰っていたという。

(199717 朝日新聞)

面接を入れるということは、こういうことが行なわれる可能性は大きくなり、しかも、不正は発覚し難くなる。

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教育とマルチメディア

最近文部省は教育現場におけるパソコンの導入の実態調査を発表し、教育においていかにパソコンの導入が遅れているかを、人材の面から問題提起をした。

調査によると、パソコンを生徒に教えることができる先生は、きわめて少ないことを明らかにし、情報の専門家による教師の再教育の必要性を提案している。

最近は何でもかんでもマルチメディア。まるでこれが何でも可能にしてくれる万能の道具のように持ち上げている。
この焦せらせかたは、いったい誰の演出なのだろうか。

なぜ、多くの教師がパソコンに今手を出さないでいるか、詳しく検討したのであろうか。

僕の回りを見る限り、教育行政の指導的立場にある人で、パソコンを自由に繰れるまでにある人を知らない。

多分、文部行政に関わる指導的な立場の人にも、その人数は多くはないと思われる。

なぜなら、僕の経験からすれば、50歳以上の人が現在のパソコンを、自分で自由に使いこなせるにはかなり困難が伴うからである。

僕は一応理科系の人間なので、興味のある方だが、独力で、このパソコンを一応曲がりなりにも使えるようになるには膨大な書物と、時間を必要とした。しかし、まだまだ、予期せぬトラブルにはさっとは対処し難い。

また、メーカーの解説書すら多くの場合、そのとおりにはいかないことが多い。

Niftyなどの、パソコン関係のフォーラムを覗いてみると、たくさんのトラブルが日々よせられている現状をみても(僕もよくお世話になるが)、まだまだ、簡単にいく代物ではない。

なぜかといえば、パソコンはワープロなどと違い可変性の効く機械だから、そのトラブルも実に個性的である。(とんでもないことだが、WINDOWS95のソフトについて習熟しているはずのマイクロソフトのサポートセンターに問い合わしてもまったくの嘘を教えられた経験もあるくらいである。)

このような現状では、教員の再教育といってもどこまで成果ががあるのかきわめて疑問だ。通り一遍のWINDOWSの初心者向け操作を習うくらいが精いっぱいであろう。それくらいのレベルで、何を生徒に教えられるのだろうか。

現実を知らない、役人的発想といわざるをえない。

かって、さまざまな教育機器が開発され、売り込まれている。

OHPに始まり、テレビ、ビデオ、そして高価なLL機器。しかし、どれだ実際に役立っているのだろうか。

OHPは教師の板書の手間が省けるが、ノートをとる生徒側からすればたまったものではない。

テレビもビデオもそうである。多くの情報を立体的に捉えられるから良いと思われがちだが、極一部の分野以外は、使い物にならない。

これらに共通していることは、情報を送る側の論理のみで進められていることが問題である。

どれほど時代が進もうが、教えられる生徒は生身の人間である。理解し、納得する量と時間制限されることが欠落している。

学校に導入されはじめて、もう20年くらいにはなると思うが、高価なLLの装置を生かしきっている学校は果たしてどれくらいあるだろうか。

ほとんどの英語教師は、チョークと生身の発音でやる方が効果があると考えている。

会話なら、外人の補助教員を採用する方がよっぽど効果があるだろう。

僕は、教育の機械化には疑問を持っている。

教えるということは、基本的には相手を見ながらの、手作り作業であると思っている。

この事に関して、面白い事例がある。関西に進出してきた某大手予備校はサバイバル競争の果てに、かって、華々しくハイテクの衛星放送を売り物にしていたが、浪人生からそっぽを向かれ閉鎖のうわさがある。

いくら教え方に定評があろうが、ブラウン管の向こうでは効果はないことの証明である。

現在でもパソコン教育の研究校として、多くの学校が指定され重点的に予算が執行されていると思うが、そこでの本当の成果を評価してもらいたい。僕の知っている限りでは、多分、あまりいい効果は得られていないとおもう。

パソコンを生徒が使えるようになることは将来必要とは思うが、理科の授業の中で有用と考えられ場面は、デモンストレーション以外ではあまり考えられない。

今、学校でやれるパソコン教室はWINDOWSの基本ソフトの操作くらいであろう。

これくらいなら、行政改革、財政再建が叫ばれている中、あえて推し進める必要などない。

その程度のことは、かってファミコンが恐ろしいスピードで子供たちに広まったように、技術革新が進行しもう少しパソコン本体が安くなれば、学校で教えなくても、子供たちの方が勝手に習得するであろう。

中等教育にあっては、まだまだ基本的な知識の理解と習得に、今までどおり多くの時間を割かなくてはならない。

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現代教育の問題点

今、教育がおかしい。

最近は、いじめの問題がクローズアップされて、また、昨年のあのオウム騒ぎもすべからく、諸悪の根元は受験戦争にありと短絡思考が横行しているが、 事の本質を見抜いていない気がする。

もっと冷静になってほしい。考えてみれば、いつの時代も若者は、問題を抱えてきた。
社会に問題化すれば、マスコミを先頭とする善良さに満ち満ちた大衆は、その都度、其の原因を 原因を何かに帰さねば我慢できないらしい。
そこで餌食になるのは、いつも学校である。
ある時は、制度であり、またあるときは教師の資質に矛先が向かう。

国民のあらゆる年齢、階層が共有している(内容は異なるが)対象なので、それぞれの経験に基づいて案外気楽に魔女狩りに参加できるからである。

明治以降、森有礼が整備した学校制度によれば、教育の一面、いや本質は、人材登用、振り分けマシンであり、その中では、一握りのエリート以外の大多数は、敗者になった。
その恨みがあるから、その一点であっという間に、教育制度憎しの共通認識が形成されて集団ヒステリックに陥ってしまい、其の原因を教育の所為にしてしまう。

我々の世代の、70年安保全共闘時代もそうであった。バリケード封鎖のキャンパスに受験戦争の犠牲者を救うまなざしで、PTAのおばさんが親切にも説得に現れた。
今回のオウムにしても然り。すべて受験戦争の結果と決論つける。
そこで、余りにも多くのことを詰め込む詰め込み教育に原因を求め、解決とし、ゆとりと称する負担の軽減、教育レベルの低下を処方した。

どさくさに紛れ、其の解決のためにと称して、戦後あれだけ反対していた一斉能力テストの変形の共通一次試験が導入されたが、それが何をもたらしたのか考えてほしい。大学のいっそうの序列化と徹底した偏差値教育を生み出しただけではないか。
今の大学進学の進路指導においては、大型コンピュターを擁する大型予備校に完全に支配されてしまっている。
(それと、センターテストに関わる税金の膨大な国民負担だけが残っている。)

共通一次、センターテストと変わった、この一斉テストが、大学から高校全ての教育の現場において、メリットよりデメリットの方が大きいと、ほとんどの関係者は(これに直接関わる文部省の役人と、偏差値を牛耳っている予備校以外)考えているのに、どうしてこれを廃止せよという動きにならないのか不思議でしょうがない。
行政改革の最も上位に上げるべき対象だと思うのだが如何なものか。

学齢期の子どもを持つ中でも、極一部の親しか理解していないと思うが、現高校3年から適用されているカリキュラムは、生徒の多様化に対応するというコンセプトの基に、 現場の教師ですら理解できないくらいの複雑な細分化がなされている。
(来年度のセンターテストの社会の問題冊子は、選択科目が多すぎってちょっとした本の如きの厚さになる。これだけでも膨大な資源の無駄)

何処かの経済人が、建設省の廃止論をいっているし、また小泉とかいう元気のある2世議員は、あの自民党の中で無謀にも郵政省の解体論を張っている。
日本の官僚制度は、明治以後立派な仕事をしてきたことは認めるが、官僚制度の最大の問題点は飽くなき自己膨張、そして1度得た権益は自らは手放さないし、 何もかも、其の手中に納めないときがすまない幼児性にある。
文部省も、この際大幅に縮小すればいい。

共通一次の制度で、全てを一括管理できるということに最大の問題点がある。
これで、教育の自由度はなくなり、大衆化という堕落が始まった、 大学入試は、昔のように個別大学に任せても、選抜試験という目的にとっては十分対応できる。今よりももっと合理的。安価に!

それと、若者の問題を教育の詰め込みに有りとする短絡認識は、即刻放棄きすべきである。
日本は、今も昔も、唯一”人”的資源しかない。この能力を開発しない限り生きていけない自明の理を、バブルで忘れてしまったのか。

いずれの道を究めるのも、努力なくしてはできないことを教え、そのための意義を教えねばならない。
科学技術全ての面で、世界は急激に進歩しているのだから多くのことを学ばなければならないのは当たり前である。

詰め込みが可哀相だからと安易な方に妥協していけば、教育のレベルは低下し、限りなく怠惰な人間ができてしまう。
教育の間違った平等性、大衆化のために、方々でほころびが生じている。これは、本来多様性のある教育を、全てを一元的に管理しようとすることに限界があるのに気が付かねばならない。

この、20年らいの日本の教育の失敗は、国民経済にもこれから先、徐々に其の影響が出てくるだろう。

国民全体の知性の総体量を考えると、多分、総和はそう違わないと思う。(最も最近の出生率の低さは不気味だが)
其の時代に、其の知性を、何処に向けていくのかによって国の将来が大きく左右される。

明治以降は、富国強兵のために、全ての知性は軍国に振り向けられた。
その結果、日本は最終的に敗戦という大きな犠牲を払わねばならなかったため、評価は色々に分かれるが、 しかし、江戸時代に恐れていた植民地にはされなかった。

戦後は、平和日本の国の再建のために、技術立国として生きていくのに知性を投入した。
製鉄、造船、自動車、電気、電子に優秀な知性が集まり、戦後奇跡的な復興を遂げたのではないか。
現在の日本の経済収支は、電気と自動車の稼ぎでもっているといって過言ではない。
これは、、それ以前に、優秀な知性の集積がそこにあったからではないか。

ところが、喧嘩太郎の医師会の圧力で、国民皆保険の元、医師優遇政策が功を奏するや、 異常なほどの医学部志望が始まった。
悪いことに、昭和40年代後半から始まった経済の不安定も手伝って
益々この傾向はエスカレートしていく。

目標や問題意識を持たせられない教育現場にあっては、 この頃、タイミング悪く発足した共通一次の偏差値という 虚構の目標に多くの優秀な知性を向かわせてしまった。

とりあえず医学部が偏差値が高い、という理由のみで適性も考えずに優秀な知性が医学に集中している。
医学部に、それほどの知性が必要であろうか。
かなり優秀な知性の持ち主も、ほとんどは一介の医者で終わってしまう。

批判を承知で言えば、寝たきりの老人の命を数日延ばすのに莫大なお金と、知性を投入する必要があるのだろうか。

それよりも、これから益々激しくなる技術革新に対応していかないと、日本の経済は完全に競争力を失い国は衰退する。
中国を初め、東南アジアの意気込みは迫力がある。
死んだ振りののアメリカの立ち直りには底知れない迫力を感じる。
一人、日本だけが、奇麗事の建前教育を推進していていいのだろうか。

産業界にも問題がある。資本の論理が強く出過ぎて(生き死にだから背に腹は代えられないのだろうが)技術者を大切にしない。
不況だといえば、過去の実績なんぞおかまい無しにリストラをはじめる。
辞めよといわんばかりの配置転換、出向と技術者研究者いじめをしている。

昔の、日本の企業はそうではなかった。技術者、研究者をそれなりに遇していた。
今の子供たちの親は、丁度、このリストラの対象者である。高度成長期にはがむしゃらに働いた仕打ちがこれでは、子どもに自分の仕事を継がせる夢を持たせることはできないのは当たり前だ。
だから、(今までは)食いっぱぐれのない医学部に、優秀な子どもであればそれだけ入れたいと思うのは親ごころである。

日本の現在に、最も問題なのは、金もうけ以外、目的意識を持たせられないことである。
建前的な、人類愛よりも、現実的にはナショナルなものの方が効果的だし、それが世界の常識だ。
(ナショナルなものの、協調的競合が、世界の発展につながる) しかし、戦前の間違った軍国主義により、日本ではナショナルな意識が素直にだせない不幸な民族になった。
今回の、アトランタのオリンピックでは、アメリカ人が、白人も黒人も等しく、あれほど素直に国家と国旗に愛着を表現できるのを羨ましく思う。
(一度は国に裏切られたアリまでもが)

若者に、崇高な生きる理念を、大人は与えなければならない。
次の時代をにビジョンを示せるものが、若者の前に立たねばならない。

と、するとやっぱり優秀な人材が、教育に携わることが必要である
しかし、現状は、
哲学のない、あの低レベルな問題に、長々と議論している職員会議の状況を知れば、当面は悲観的である。
(教職の採用に関しては、大いに疑問を感じているが、また別の機会に述べたい)

何も知らない若者には、最初に出会う大人が”先生”である。 その先生は、子どもの時にはたいそう偉いのかなと思ったが、大人になって色々な人に出合い、人物を見る自分の目が肥えてくると、教育関係には(僕の経験では)人材が居なかった(居ない)とつくづく思う。
僕自身は、極論すれば子供たちは”先生”という最悪のレベルの大人に最初に出くわしているのではと思うくらいである(自戒も込めて)。

問題意識さえ持てば、人は苦労を楽しむ。
成功した教育とは、其の問題意識、目的を生徒に持たせることであるが、教える側にそれが無くしてどうして生徒に教えられるのか。

1996年8月6日記
インターネットは奇麗な画面づくりもよいが、やっぱり意見を自由に述べ合うのが言いと思います。

もっと、意見発表のPageが増えればいいのに。
勇気をもって、発言しましょう。

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