記憶の断片


目次

プロローグ

故郷の記憶

幼稚園から小学校時代

振り返ってみれば、その2 

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プロローグ

人の記憶は、果たして何歳くらいから残るのであろうか。

潜在的には、胎内にいるときから人は様々な刺激を記憶しているといわれているが、自分が思い出せる記憶の最も古いものは、多分4歳から5歳くらいであろう。

僕の最も古い記憶は母方の伯母さんの姑さんの葬式である。

4歳か5歳くらいかと思うが、おふくろをはじめもはやその時を知る身近な人々は最早いないので、いますぐには簡単に確かめる術が無い。

調べようと思えばそれなりに、今なら何とかなるが、それ程にまでして調べることでもないので、朧げな僕の記憶を自分で信じているわけである。

いつの時代のものでもそうだが、長い時を経ても自分の脳細胞に刻み込まれて残っている記憶は、その当時、自分にとって何がしの強いインパクトのある出来事であったからである。

最も古い記憶の親戚の葬式では、仏さんに対する思い出は全くない。

ただ、覚えていることは、雨の中、火葬場にから帰るハイヤーの中で母がいった言葉である。

朝鮮戦争特需でボロ儲けした、叔母さんの家の葬式はたいそう立派で葬送のハイヤーの列はかなりな数であった。何台目に乗っていたのかは定かではないが、僕たちの乗った車は葬送の列から逸れてしまった。

当時、葬送の道筋は行と帰りを違う道にするのが習わしだったらしい。だから、前の車に逸れた我々の車はどの道を帰るべきか途中で解らなくなってしまった。

果たして、我々の車はどの道を通って帰ったのかは知らないが、迷った時、葬送の道筋を何故変えなければならないのか母が説明してくれたその内容が子供の僕にとっては、とても恐かったから、今でもこの葬式の情景がはっきりと記憶に残っている訳である。

ちなみに、母がいった内容は、「死んだ人が、あの世の旅の道ずれを見つけに、道を覚えて追っかけてきたら困るので、解らなくする為である。」というようなものであったと記憶している。

このように、随分時が経っても脳裏に刻み込まれて消えない記憶は,溯れば数多くある。それらを、繋ぎあわせれば、自分の歩んできた道がそれなりに炙り出され、自分というものの存在が自覚できるのではないかと思う。

言うなれば、私小説的、自己記録の断片を自分の記憶を頼りに書いていこうと思う。

 

故郷の記憶

生まれたのは昭和24年、西暦では1949年の世紀半ばである。新しい21世紀は50歳かと幼い頃思っていたが済んでしまえば早いものである。もうすぐ21世紀になろうとしている。

大阪出身の父と姫路出身の母がどういった経緯で結婚したのかは詳しくは知らない。

母は、4人兄弟の年の離れた末娘であって、10歳年上の姉の嫁ぎ先の知りあいの大阪府会か市会かの議員の世話で見合いしたらしい。その姉が奈良に住んでいたからか、戦争中に奈良に疎開したまま居着いたようである。

こういった経緯は親は子供に話さないものであったのか、今思い出そうとしても詳しく聞いた覚えはない。そう言えば、僕自身も、娘たちにその様なことを話したことがないのだから、特別にやんごとなき家系でもない庶民としてはこれが当たり前なのかもしれない。

戦後、復員してきた父はそのまま疎開先の奈良で地方公務員として働いていた。

その関係で、僕は奈良県の当時は典型的な農村の集落であった秋篠で生まれた。

秋篠は、技芸天で有名な秋篠寺のある所だが、この歴史の里の牧歌的な佇まいに似合わず、戦前からは隣接して競馬場があった。それは、戦後間もなく廃止になり、代わりに貧しい県の財政の為、県営の競輪場となっていた。父は、長らくそこの事務所に勤めていた。

僕の生まれる前なので当然記憶にはないが、後で母から聞いた話では、戦後広い競馬場の敷地には進駐軍の駐屯地となっていたらしい。純農村のこの村には英語を話せる人はほとんどいなかったが、よそ者である母が高女の出であった為か少しは英語が話せたので大変重宝がられたらしい。おかげで、7つ上の僕の姉なんかは当時としては貴重なチョコレートをよくもらったと言う。

普通排他的な古い農村にあって、よそ者である我が家があまり差別された記憶が無いのは母のそういった活躍があったからかもしれない。

小さい頃は、4人の子供を育てることで精一杯であった為か昔の話をそうする方でなかったので断片的にしか母の過去を知らない。しかし、その当時、村で唯一のインテリであった秋篠寺の住職さんには大変世話になったらしい。その時のご縁でそれ以後秋篠寺に先祖の彼岸の回向をお願いするようになっている。

母が生きていた頃にはほとんど一緒に行ったことはないが、Uターンして故郷で現在の職をするようになってからは、春と秋の彼岸の回向には決まってお参りするようになった。 その折に、住職さんから昔の秋篠の里の話を聞くことがある。僕の知らない若き日の母の話なども出てきて懐かしく当時が偲ばれる。

それらの話や、当時すでに小学校ぐらいで記憶の残っている姉の話などを繋ぎあわせると、最初は秋篠寺の境内のすぐ西隣の所の借家に住んでいたらしい。

神経質で信心深い父は、生まれて間も無く大病を患った兄のことなどもあり、方角が悪いという占い師に従い競馬場跡の用済みになっていた厩舎の管理人室を改装したところに引っ越してきた。

もっとも、経済的な理由も有ったのだろう。当時、県職員の官舎の代用みたいになっていたのか同じように県の職員の数家族などがそこに住んでいた。多分家賃なんかも無かったと思う。

そこで、僕が生まれた。

生年月日は、1949429日、昭和天皇と同じ誕生日である。後で解ったことだがこの天皇とは干支が同じ丑年、そして血液型まで少数派のAB型で同じとは不思議な因縁である。もっともこちらは、キリストと同じ馬小屋生まれ。

ここは、広大な敷地に、10棟ほどの細長いこれらの厩舎と、何に使っていたのか知らないが競馬場の時に必要であった大きな木造の建物、そして、新しくできた競輪場の施設などがその中にあった。

競馬場のコースの跡地はクローバーの生えたまま放置されていた。春には一面にクローバーの白い花や、様々な草花が乱れ咲いていた。

コースに沿って秋篠川が流れていたが、今とは違い奇麗な水と砂のある小川であった。

夏ともなれば、一日中この川で遊んでいた思い出がある。魚も豊富で土手の穴に潜む大きなフナなどを手掴みで獲っていた。

まさに、「小鮒釣りしかの川」である。

それらは全てわれわれ子供たちの絶好の遊び場であった。貧しかったけれど自然には恵まれた環境であった。

家の周りには多くの空き地が有った。県有地であったのだろうが耕せばそれは自分の畑になった。

それ程大きくはなかったのかもしれないが、幼い頃の記憶では結構広い畑が有った。四季折々に季節の野菜を作っていた。

春になれば菜の花畑に蝶々が乱舞していたのが思い出される。

大阪出身で華奢な体格の父の農作業はあまりうまくはなかった。我が家で満足に取れたのは荒れ地でも育つ南京かぼちゃ、きゅうり、サツマイモぐらいしか記憶に無い。

育てるのが難しいトマトやすいかナスなどは思い通りには取れなかった。

競馬場時代に住んでいた人が植えたのか、大きな無花果の木が数本、そして茱の木もあった。

無花果の木は折れやすいので危ないと言われていたが、食べたさに負けて木に登って採ったものである。

家の前には広い花壇がこしらえてあり、そこには数種のダリアとグラジオラスのような大型の花が植えて有った。またいたるところにコスモスの群生も見られた。

花にも流行が有るのか、今気がついたが、これらの花とも最近はとんとお目にかかることも無くなってしまった。こじんまりした最近の新興住宅地には大きすぎて似つかわしくないからだろうか。

小学校3年の時隣町の西大寺に家を建て引越しをしたので、ここでの体験の記憶が残る年数はせいぜい45年間ぐらいしかなかったはずであるが、最初に脳裏に刻み込まれた記憶からはもっと長い様に感じられる。

誰でもそうであろうと思うが、年を経るほどに時間の感じ方が早くなるものであるが、幼い時の時間は確かにいまより随分長かった。

現在は施設は一新され、当時の面影を残すものはほとんどなくなってしまったが、僕の記憶の奥に鮮明に残っているあの広大な敷地も、時間同様、大人の歩幅で今歩くとまるで騙されたような短さになるから不思議な感覚に陥ってしまう。

故郷とは時間と距離感が子供のスケールで固定された幻想世界なのかもしれない。

周辺部での宅地開発が進んだ今でも根強いが、いわゆる古い村落共同体の排他性は当時は相当なものであったと思う。

幼い頃の僕は、結構気が強く体も大きい方であったので、戦中都会からの疎開児童が味わったような、学校や子供の地域社会で直接嫌がらせや差別を受けた記憶はあまり無いけれど、その頃親しく付き合っていた友達は村の農家の子ではなくて同じような境遇の少数派同士であったことを考えれば子供心にも無意識に何かを感じていたのは確かであろう。

ただ1つ、村の排他性を強く意識した出来事がある。それは、毎年秋に催された収穫を祝う村の神社の秋祭りである。

秋篠の村は、由緒正しく富める村であったのか立派な御神輿を持っていた。秋祭り近くになると村の中心部にあった公民館の倉庫にしまってあった総桧作りの御輿が組み立てられる。

このあたりの村はみな同じような様式の御輿を持っていたが、村の子は、ある年(多分小学1年生)になると奇麗な着物を着せてもらって御輿に乗り太鼓を叩く役がまわってくる。しかし、当然、われわれよそ者には祭からはのっけから除外されていた。

祭だから、選ばれれば相応の祝儀をはずまねばならないし面倒なこともあるとは思うが子供にはそんな事情は解らない。

学校で同じように遊んでいる級友が御輿に乗れるのに、村の子でないという理由だけで外される理不尽さを子供心に悔しい思い味わったことは今も心に残る。

人によれば、現代のよそよそしい社会に対比し、失われたあの田舎の共同体を日本の心のように賛美するきらいもあるが、僕は心からそれを素直には受け入れられないのは少なからず当時の経験が影響しているからだろう。

しかし、彼岸のお参りの折りに例の秋篠寺の住職さんの話では、宅地化が進み兼業農家が増えるとともに御神輿の担ぎ手の村の若い衆が集まらなくなったので、もうだいぶ前からその秋祭は無くなったとのこと。

村落共同体が外からの都市化に飲み込まれ滅んでしまった現実には、反面少し寂しいなと矛盾した気もするがそれも時代かなとも思う。

そう言えば、上の娘がまだ3〜4歳であった頃、仕事の関係で東京の本駒込に住んでいたことがある。ここの祭は春であったような気がするが、小さな御輿を法被を着た子供たちが町内を練り歩く。

この祭には、われわれのような、それこそ借り上げ社宅に住むよそ者にも何の分け隔てもなく仲間に入れてくれた。

東京のように、あそこまで巨大化すると最早地の者よそ者という区別をしてはやっていけないほど雑多になってしまったからであろうか。

都市化の波に洗われて古い伝統が廃れていきつつあるこの時、新住民旧住民が力を合わせて新しい祭を創生してもいいのではないかと思う(事実、御輿の担い手がいなくなった現実を前に村民の中の1部ではそう言ったようなことも話されているらしい)

しかし、秋篠は奈良時代から続いている古い村で、得体の知れない固い絆で結ばれている精神的な村落共同体はそう簡単によそ者は受け入れないだろうと言う気もする。

秋篠で、将来秋祭りが昔のように行われる場合があるとすれば、その祭は圧倒的優勢な新住民が昔の祭の形態を発掘拝借して新たに模して作った祭になると思う。東京の祭もその様な経緯で新たに生まれたものであったのかもしれない。

幼稚園から小学校時代

記憶がしっかりと残っているのは幼稚園以降である。写真を見てもそれ以前に写っている自分の姿に関しては何の記憶もなくただ単に知らない風景の1つにしか感じないが、幼稚園以降のものならば今でもその写真を写された状況を記憶の中に蘇らせることができるものである。

幼稚園は小学校の校舎の一部を使っていた。しかし、田舎にしては割合早くから幼稚園は開園されていた様である。ただ1年保育までで今で言う年長組み、年少組みのような複数の保育制度は確立されていなかった。

うちの母なんかも参加していたが、何人かの保護者の要望で僕らの時から日曜保育といって1年目は日曜日だけ幼稚園にいけるようになった。しかし、その頃の記憶は「行けるようになった」以外はほとんどない。

幼稚園での思い出は紙芝居とお絵描きくらいであろうか。絵は「自由画帳」というのがあってそれに思い思いの絵を描いたのを覚えている。

なにを思ったのか消防自動車と火事の絵を良く描いた。

幼稚園時代の出来事で鮮明に記憶に残っている事件が有る。当時、遊び道具に大きな積み木が有ってそれで先生が家を作っていた。

積み木は十分に大きいので家の中に入れるようになっていた。休み時間にその積み木の家に上ろうとしたら突然その積み木の家は崩壊した。

運悪くその時積み木の家の中には、何人かの園児が入っていた。何人かはかすり傷程度であったが怪我をしたようである。

この事故には、先生は吃驚したであろうことは想像できる。今では考えられないことだが、この事故のために積み木に上がった「加害者」の我々は職員室に連れて行かれ、そこで罰として何時間か立たされて怒られた。

我々には、何の罪の意識もなかった。その積み木は上に登ったり滑り台を作ったりして遊ぶものであったので、「上に登ってはいけない」という認識はなかった。

今から考えてみれば極めて危険な「遊戯物」であったのだ。責められるべきはその危険性を見抜けなかった園当局に有ったわけだが、当時にはそんな考え方は通用しない。

幼い傷つきやすい園児なのに大人の論理の厳しい叱責を受け、下敷きになった園児に強制的に謝らされたのを覚えている。

その理不尽な扱いに幼いながらも強い不満を持ったのを、今でも立たされていた屈辱的な光景とともに鮮明に蘇る。

もう一つ覚えていることは、毎日帰り際に肝油を一粒づついただいた。その頃は、まだまだ食糧事情も悪く園児の栄養補給を考えた為であったのだろう。ゼリーのような肝油の甘さが今でも記憶に残っている。

立たされた記憶はもう一回有る。

小学校に入学してまだ間無しのことであるが、当時同じ小学校の4年生であった兄の担任の「仇名」を言っただけで、当時の担任であった少々ヒステリー気味の女の担任の逆鱗に触れ、あろうことかそのまま4年生の兄のクラスまで連れて行かれ立たされた。

これにはさすがに吃驚した。なぜこの程度のことで、ここまでの仕打ちを受けねばならないのか理解に苦しんだ。

当時、この小学校では、その頃からうるさくなった「道徳教育」の研究校に指定されていたらしい。挨拶の励行や廊下の右側通行、言葉づかいにいたるまで指導が厳しかったのを覚えている。(昭和30年頃で歴史的には東西のイデオロギー対立の激しい頃である。)

この忌まわしい体験以来、僕は「道徳」という2文字が大嫌いになった。

最近今の教育を批判する人の中に、今と比べるとよく昔の先生は良かったという論調を耳にするがそれは錯覚である。今も昔も「教師」という人種には世間では到底考えられないような人がいるものである。

小学校の入学式の記憶は全くない。多分ありきたりの式であったのだろう。ただ、新入生の頃の学校の周りの光景とともに子供心に高揚した気持ちであったことは覚えている。

今でこそ、このH小学校のあるところは新興住宅地に囲まれてしまい昔の面影は薄くなったが、僕が通った頃は広々と続いた田んぼの中にあった(多分それはその頃の校区であった5つの集落の中心を考えて設置されたためと思われる。田舎にしては創立は古く明治の学制ができた当初には設立されていた)。

校舎は戦前に建てられた木造で東を向いてコの字型をしていた。校舎に囲まれた中庭の中心には築地の上に二宮尊徳の石像がありこじんまりはしているが整った庭園になっていた。

正門とそれに続く塀は鹿鳴館時代を思わせる洋風の代物であった(らしい)が塀の上の鉄でできた立派なフェンスは戦時中の供出で無残にも根元からやすりで切り取られてしまっていた。

それでも田舎の小学校のやせ我慢であったのだろうか、ベルサイユを模したような和洋折衷の洒落た造りの学校であったことは十分に想像できた。

コの字型の校舎の正門の前には運動場があり、そのもっとも東の端には大きな楠が一本茂っていた。北側には秋篠川が流れていたが、南側は田畑が広がっていた。校地の南端や校門付近には大きな桜の木が数本植えられていた。

新学年の4月には、それら桜の花や、学校の周りの田畑には菜に花や蓮花草などが咲きそろい、今では考えられないくらいたくさんの紋白蝶が乱舞していた。その絵に描いたような春の情景は長い年月を経ても僕の頭の中には生き生きと蘇らせることができる。

絵本に出てくるようなのどかな田舎の小学校のあの光景が僕にとっての学校の元風景なのかもしれない。

1年生の授業で覚えているのは国語の時間である。菜の花が咲いていたので入学した当初の授業であったのだろう。

国語の教科書の例に倣って詩を書く課題であったのだが、僕にはこの詩という文章がいまいちピンとこない。

論理的な文章は解るのだが詩のような心象風景を擬態的に表す創造性に欠けているのでいったいどう表せばいいのかさっぱりであった。

苦手な音楽以外は、田舎の小学校ではまず誰にも負ける気がしなかったのだが、この詩という怪物にはどう対処すればいいのか取っ掛かりさえ解らず困ったことを覚えている。

授業では優秀作品を披露される。名前は忘れたが或女生徒の黒板消しについての詩が優秀作品に挙げられた。詳細は当然今は覚えていないがその作品の趣旨は、「黒板消しが色々な文字を食べてしまうのが面白い」というような内容であった。

黒板消しを擬人化してイメージを膨らませたものであったが、僕には何故このような空想的な発想が可能なのか、その生徒の才能に大いに嫉妬したのを覚えている。

音楽、とりわけ楽器に対するコンプレックスも小学校のときに決定的になった。

小学2年か3年か忘れたが、昔はハーモニカが課題であった。あのハーモニカがどうも僕には上手く吹けないのである。

ドは吹いてレは吸ってとついつい頭で考えてしまう。吸って吐いてと規則的ならまだしも最後のシでは息の順番は狂うは場所も違うはで僕の頭ではとてもついていけない。

そもそもこういった器械は頭で考えるようでは駄目なのである。

反射運動的に脳を会さないで反応しなければならないのだが、それが僕には苦手なのである。吹ける原理が分かればそれでいいのではとつい思ってしまうから練習にも力が入らない。

この性分は、現在にも続いていてこの文を書くキーボードの操作もいまだ片手打ちである。キーボードマスターとやらのソフトを買ってはきたが最後まで練習できない。

さっさと上達してしまった娘からはいつも馬鹿にされどうしである。

算数や理科など普通の教科では田舎の小学校では負ける気がしない生徒ではあったのに、このハーモニカにだけは日頃はあまり成績の芳しくなかったものと同じ班に入れられて居残り練習をやらされた。当時はプライドの高かった幼い「優等生」としてはその屈辱感が耐え難い事態であった。

三つ子の魂百までなのか、今でも僕は楽器を操れる人には羨ましくもあり、限りないコンプレックスを抱いてしまう次第である。

 

昔の子供は今と比べれば屋外で良く遊んだものである。休み時間には早く運動場に出ないと遊ぶ場所が無かった。

我々の時代は団塊の世代で今と比べると児童数の絶対値が大きかったこともあるとは思うが、やはり今よりは全般的に屋外に出る傾向は強かったと考えられる。

子供の遊びではいつのまにか廃れてしまったものも多い。今ではゲームのルールも忘れ去られて完全には復元できない。

地面に瓢箪型の図を書いて外側の組と内側の組に分かれてお互いの陣地から追い出されたほうが負けるゲームをやっていたことは覚えているが詳しいルールは忘れてしまった。

それ以外にも、敵味方に分かれて戦争しあうゲームで、自分の陣地を先に離れたほうが弱く、強い敵(後から陣地を出た敵)にタッチされると捕虜になり、その捕虜を味方が救出(タッチをする)したりして早く全滅したほうが負けるというような遊びもあった。

家では近所の友達と石蹴りやベッタ、B玉遊びなどもやっていたが、石蹴りなどは複数のやり方があったが、これらの詳しいルールももうすっかり忘れてしまった。

また砂場では相撲をしたり、色々な砂の造けいを作ったりして遊んだものである。

今のように整備された公園など皆無であったのに、子供たちは実にさまざまなものを自分で工夫して遊んだものである。

今住んでいる住宅地は個数700戸余りであるが、その中に公園が6つ、それに小学校の運動場と贅沢に整備されている。しかし公園で遊んでいる子供はほとんど見ない。

ぶらんこや鉄棒、滑り台などがそこが公園の証であることのためにあるだけで、使われもせずに錆びたまま放置されている。

豊かさの代償に大事なものをどこかの置き忘れてきたのだろうか。

子供の遊びだけでなく、色々な伝統行事も我々団塊の世代を境に断絶しつつあるような気がする。

 

正月はその年末からその準備に忙しかった。暮れには、決まって新しい服や正月用品を買い出しにわざわざ大阪まで出向くのが常であった。その賑わいは今より凄かったような気がする。

年末の決まった日には近所の家で餅をついてもらった。その日は数家族が一緒になって1日掛かりで餅をついた。搗き立てにはAあんころ餅を作りそれをいただくのが楽しみであった。

昔の子供は総じて餅が大好きであった。我が家は、食い盛りの子供が4人もいた為か毎年餅箱に10箱はついてもらった。

それでも、正月も松の内までには確実に無くなっていた。最後は、床の間に飾ったカビが生え、硬くひび割れした鏡もちを水餅にして食べるのが最後であった。

晦日には、毎年ごまめや、棒だら、きんとん、等々いわれのある決まったお煮しめがつくられその準備の匂いとともに歳は暮れていった。

また、それまでには、家中で家の内外を奇麗にするすす払いも必ずやったものである。

元旦には決まって朝風呂を入ることになっていた。元旦の朝はにらみ鯛を中心にそれはそれは豪勢な正月料理であった(様に感じた)。

ごまめや煮しめなどは子供の口には合わなかったが、縁起ものだから必ず一口は食べるようにと食べさされた物である。

今やどちらがどうであったか定かではないが、澄まし汁と白味噌汁の2種類の雑煮のその作る日が厳格に決まっていた。

後は、家族で春日大社に初詣にいくのが我が家の習わしであった。一人一人おみくじを買い一年の運勢を占った。

父は毎年その年の干支の一刀彫り買うのを習慣にしていた。

信心深い父は、その他にも石切り神社と伏見稲荷には必ず参っていた。小学生までは父についてよくお参りにいったものである。

それに、その是非が、多分問題になっていたはずなのに、それにしてはほとんどの家々には日の丸が揚げられていたように思う。

一部の知識人以外は、戦前からそれが当たり前のように染み付いていたためであろうか。日の丸や君が代が問題になるのは戦後民主教育の洗礼を受けた、むしろわれわれ戦戦争を知らない団塊の世代だったような気がする。

 

毎年年始の挨拶に伺う順番が決まっていた。

元旦に行くのは、近所にあった母方の伯母の家には事業をしていた関係か毎年大勢の年始客が訪れるのが習わしであった。

ここでは、年玉がかたまってもらえるので効率が良かった。主人の伯父さんを中心に大人たちは一日中酒盛りの宴会で、母たち女性陣はその接待に台所で忙しく働いていた。

子供たちは別室で子供たちだけで正月料理を食べたりゲームをしたりして遊んだ。ほとんどの親戚は大阪からきていたので都会の雰囲気があり、田舎育ちの僕は気後れしたものである。

正月の行事は、今でも概ね踏襲されてはいるが核家族化が進行したこともあって昔のように一族郎党が集まるというような習わしは段々廃れてきたように思う。

我が家では、正月といっても子供たちは昔の我々の時代のようには喜ばず、料理も義務的に必要最小限に作るだけで日頃から飽食になってしまったからか正月料理にさしたるご馳走観も無くなってしまった。

日の丸は最初から家には無いし、初詣ももう行かなくなって随分になる。

 

2月の節分には鬼の餌なのか魔除けなのか定かな謂れは知らないが、家の門に柊の小枝にいわしの頭を付けたものを飾るのが習わしであった。

イワシを食べ、家族全員が帰宅してから家長たるおやじの先導で豆まきをするのである。

その後には、年の数だけの豆をもらい食べるのだが、小さい子供には少ししかあたらないのが何とも悔しかったのを覚えている。

あまり裕福でなかった我が家では、お雛様や鯉のぼりも無いので雛祭りや端午の節句は我が家では別段何もしなかった。

ただ、お雛様は、女系の家族であった伯母の家には立派なお雛様があり毎年たいそうなお祭りをやるのにご相伴するのが恒例であった。

といっても、酒好き宴会好きの例の伯父さんが宴会を開く口実であったような気がする。

この伯母の家ではなにやかんやと一族を集めては宴会をやるのが大好きであった。伯母の家の一番華やかな時代であったのだろう。

子供心にも我が家に鯉のぼりやお雛様が無いことやをなんとも思わなかったが、母は我が娘(すなわち僕の姉)にお雛様を買ってやれなかったことを気にしていたようである。

後年、姉に女の子が産まれたときその頃は余裕も出てきたので、代わりにお雛様を買ってやったのを覚えている。

このような心情は、もはや我々の世代には理解できなくなってしまった様である。我が家にも買ってもらったお雛様は一応あるのだが、子供が小さい頃何度か飾っただけで後は押し入れにしまったままである。

 

あと子供の頃の懐かしい思い出としては、お月見である。中秋の名月には毎年、近くの野原で採ってきたすすきと桔梗、萩などの秋の七草を一升瓶にさし、団子を作って具えたものであった。電気を消した月明かりにすすきの影が畳に写る風情は幻想的であった。

その頃の我が家は、田んぼの中の一軒家であったが、だからこそ余計幻想的であったのだろう。

今のようなひな壇に奇麗に並んで建てられた新興住宅地ではあのような情景は望むべきもあるまい。

これらの例に待つまでもなく我々団塊の世代のこの50年で、それまで行われてきた色々な日本の習慣行事が急速に廃れていきつつある。

それらを次の世代に伝えられなかった我々の責任もあるのかもしれないが、時代が、めまぐるしく動き人々の価値観そのものが根底から変質してきたためで、だれかれの責任でもなく、これが時代の時の流れというものであろうかとも思う。

 

小学校の2年のとき親父が結核で1年間入院をした。

今から思えば親の年齢は40歳前半くらいであったのだが、中学生の姉を先頭に2つ下の弟まで4人の子供を抱えて入院前は大変だったと考えられるけれどその辺の事情は全く覚えが無い。

記憶は定かではないがおふくろもあい前後して結核で自宅療養していたのを覚えているから、普通ならかなり深刻な状態に陥っていたはずである。

隔離病棟ではなかったようで、入院先の日赤病院にはおふくろに連れらよく面会に行ったのは覚えている。

結核は、栄養を摂って静養するのが主たる治療方法らしく入院先でも病態にさしたる変化も見られないし、深刻な様子は子供の僕には感じなった。

その頃までに、すでにストマイが開発されていたので結核は不治の死に至る病では亡くなっていたからかもしれない。

病院に付いていくのは楽しみが有ったからである。親父に会うのが楽しみという感じは、親父には悪いが正直なところあまり無かった。

不謹慎だが子供の本音は、栄養を摂らねばならない病人の為に見舞い客が持ってきた見舞い品のお裾分けにあずかるのが目的である。

チーズなるシロモノを初めて味わったのを覚えている。形が石鹸のようだし、口の中で泡でも出てきそうな変な味でこれは好きにはなれない味だった。果物の缶詰なんかも見舞品の定番であったのか、パイナップルの缶詰は大好物であった。

当時は最高級果物であり、ふだん家ではめったに口にできなかったバナナなんかも栄養価が高い為か時々見舞いの品にあり、それを味わう幸運に巡り合えたりもした。

かといっても一家の大黒柱の親父が1年間もの長期にわたり入院するのだから、おふくろにとって普通である訳はなく精神的にも追いつめられていたはずなのに、そんな事を感じたことは全然記憶に無い。

自意識上では連続性が有り、あの頃も今と同じくしっかりしていたと自分では思うものだが、客観的には小学2年生という年齢ではまだまだ事態を掌握する能力は備わっていなかったということの証明なのだろう。

 

親父が元々華奢な体格の上に病気もしたからなのか、家族で旅行をした覚えはない。もっとも、友達が旅行をしたという話を聞いた記憶も無いし、それを僻んだことも無いので、あの当時は家族旅行をするというのはよほどのお金持ちくらいで一般の庶民ではそういったことはほとんど無かったというのが正確かもしれない。

転校

小学校4年の2学期から隣の校区のF小学校に転校した。

実は、その年度の4月にH小学校の校区とは境界線から数百メートルしか離れていない、隣接したF小学校校区に家を新築し引越しをしていた。

当時の小学校の校区はとてつもなく大きくちょうど境界線に位置する新居からは、どちらの小学校に通うのも同じくらい遠かった。(子供の足で40分から50分ほどかかった)

通う手間がそう変らないのなら、姉や兄が卒業し馴染もあるH小学校に越境のまま通わせてもらえるようにと親が学校と話をつけてくれた。

幼稚園から顔ぶれのかわらない2クラスの小さな田舎の小学校では、しっかりと自分の居場所があり僕にとってもそれは望むところであった。

この年の担任は、新しく赴任してきた体育が専門の若いN先生であった。

小学校のレベルでは、昔もやはり担任の影響は大きい。一年時は少々ヒステリー性の女高師上がりの名前はもう忘れた恐い先生。今様で言えばハズレ。

2年次は普通の女先生、普通であったので余り印象は無い。ただ、割合美人だったのを覚えているが年の離れた当時の校長の後妻になったのを後になって聞いた。

3年次は、この小学校で最も恐れられていた名物教頭のFが担任。この先生は毎年何故か年2組を持つことになっていた。3年次に上がった時クラスが2組だと知るとみんなはガックリである。

教育熱心だったかどうかは記憶にないが、躾には厳しくよく廊下に生徒を立たせていた。僕自身は用心をして良い子をしていたのか立たされた記憶は不思議と残っていない。

前述した、ハーモニカが吹けなくて屈辱を味わったのがこの年であったような気がする。兎も角、大ハズレの3年であった。

こんなこともあって、4年になって新しく赴任してきたN先生に代わっただけでも我々にとっては心うきうきの新学期であった。

しかも、その先生は、最初の体育の時間に、運動上にマットを敷いて空中回転の技を生で見せてくれた。このことは我々児童達にはとてつもなく凄い先生との印象を与えるのには十分過ぎた。

これは、昭和34年のことである。この頃オリンピックでは水泳と体操が日本の花形であった。僕は4月生まれということもありクラスでは最も大きいほうで当時は体力もあった。子供心に体操選手に憧れ自分でも練習していた。得意技は逆立ち、鉄棒であった。

運動場の端から端までは逆立して軽く歩けし、蹴り上げなしで腕の力のみでも逆立ちできた。階段を逆立で降りることも出来た。

前方の地上回転も出来たが、憧れの空中回転は子供にはてもての届く技ではなかった。

 それが、いきなり目の前での実演である。僕は、完全にその先生の虜になってしまっていた。

それまで味わったことの無い楽しい学校生活であったのに、それはたった一学期で終わることになった。

その理由が、今思うと極めて異常な心理から来る僕の決断であった。

 この前年であったと思うのだが、この小学校ではある水難事件が起きた。校区内にある大きなため池に置いてあったボートに上級生の子が下級生の子何人かを乗せ遊んでいたところ恐がった下級生が立ち上がったために船が転覆し一人が溺れ死んだ。

恐がった上級生が、助かった下級生に緘口令を命じたため事故の発見が遅れたこともあって当時はかなり問題になった事件である。

まだ幼かったので具体的な学校の混乱ぶりはどうであったかは記憶には無いがかなり動揺したことは想像に難く無い。ただこの事件で強く記憶に残っているのは、これをきっかけに川や池での水遊びはきつくご法度となったことである。

話の本筋からは、少しずれるが、水死した下級生は弟の同級生でもあり、小さな村の同窓でもある関係からこの子の葬儀に参加したのを覚えている。この葬儀も雨だった。

当時、秋篠の村ではまだ土葬が行われていた。葬列に参加し村外れの墓場まで付き添ったが、そこにはすでに深い穴が掘ってあった。そこへ紐でつるしたお棺を下ろすのだが、時折お棺が傾くたびに中の骸がコト、ゴトとなった。その音が、正にそこに死体が横たわっている様を強くイメージさせ死体を直接見るより強烈な畏怖感をもったのを覚えている。事実このあと、夢に何回も出てきたのを覚えているし、荒れから40年以上たった現在ですらあの時の光景はしっかりと脳裏に焼き付いている。

僕にとっては、具体的な「死」を意識した最初の出来事であった。

こんな事もあり、夏休み前に学校からの注意事項として、川や池での水遊びは強く禁止されていたのである。

ところが、夏休みに伝書鳩をたくさん飼っていた姉の級友Hさん―高校生のボーイフレンド―の家に遊びに行ったとき(Hさんからは栗毛の伝書鳩を分けてもらい僕も飼っていた。)、近くの溜池に泳ぎに行くので一緒に行こうと誘われた。当時はまだプールなど県内には一つぐらいしか無い時代で僕の住んでいた北部の奈良市と違い奈良の南部の郡部では、子供達は結構気楽に溜池で泳いでいたらしい。

断りきれず“禁”を犯して僕は一度だけ池で泳いでしまった。

この出来事以来夏休みは憂鬱であった。新学期に登校するときまって担任からは休み中の生活態度を問いただされるからである。

学級委員長の僕は当然模範生でなくてはならなかった。尊敬していた担任の言付けを守れなかった僕は、担任との信頼関係が破綻するのでは無いかとひどく恐れた。

校区から遠く離れた場所でのことなので、黙っていれば済むことであったのだが、それがどうしても出来ない。

嘘をつく行為そのものが許されないとの強い倫理観が自身を苦しめた。子供という時代はとてつもなく真面目で純真なものである。

幼い頭で悩んで考えついたこの窮地から脱する唯一の解決策が「転校」であった。

夏休みの終わる頃、母には、「通うのが遠いのでやはり転校したい」と申し出た。母や担任は本当の理由を知る由もなかった。

本当の理由は、あれ以来小さな胸に仕舞い込んだままで誰にも明かさなかった。

 転校先のF小学校の校区は、近鉄奈良線沿い屈指の交通の要衝西大寺や、この時代の少し前から大阪のベッドタウンとして開発され出した学園前地区を含む広大な地域を含んでいた。

菅原道真ゆかりの菅原町や疋田町など、古くからの農村もあったが、H小学校よりはサラリーマン家庭の生徒が多く、また生徒の数、学校の規模も一回りは大きい小学校であった。

それこそ江戸時代くらいからほとんど変化が無かったであろう秋篠や山稜、押熊、中山、歌姫などの古い農家の子弟がほとんどであったH小学校は、絵にかいたような田舎の小学校の典型であったが、今度のF小学校は新興住宅地の新住民の子弟の割合が高く、その点では、親近感が持て割合早く馴染めた様に感じた。

二学期に転入して、三学期には4年生で二度目になる級長に選ばれたのだから、極めてスムーズな転校劇であったはずなのだが、しかし、心の片隅には常に転校したことに対して後悔の念を抱いていたようである。

生まれて初めて他人を意識する時に知り合った仲間の感覚は、時には血のつながりのような理屈では理解できない安心感があるものである。

H小学校の仲間の意識はそんなものであった。だから、何度も転校を後悔する夢を見たのを覚えている。

転校して1年たった5年生の二学期には、病名不明の微熱が続き長期欠席となった。大きな病院を幾つか回り血液検査レントゲン検査等々あらゆる検査してもらったが明確な診断はつかなかった。ほとんどこの学期は学校に行けなかったが、最後に近所の病院の先生が「気にしないで学校に行きなさい」といわれて登校するうちにいつのまにか症状が消えていた。

これは、今なら、新しい環境に適応できなかった精神的ストレスかに由来する「心気症」という病名がつけられると思われるのだが、当時は、そういったことが日本の医学会で全く認知されていなかったので、医者も診断の付けようがなかったようである。

そのせいであろうか、小学校卒業まで4,5,6の高学年の二年半ほど在籍した訳だが、F小学校での思い出はH小学校に比べるとほとんどない。

また、F小学校は、ほとんど全員が市立のF中学に進学したが、僕は担任の薦めるまま私立の中学校を受験しそちらに進学することになったので(三人ほどしか外の中学への進学者はいなかった)、このことは、ぼくにとって、このF小学校に対する同窓意識、帰属意識を後年ますます希薄にしてしまった一因である。

H小学校の校歌は40年も経ってしまった今でもしっかり口ずさめるほど覚えているのに、F小学校の校歌はさっぱり記憶から消えてしまっているから正直なものである。

進学した私立のS中学校は、入学後二年目に高校が併設併設されT学園と改名されたが、このT学園が僕の生涯にとって最も長くかかわりを持つ場所になるとはその時には予想だにしなかった。

 

つづく

 

振り返ってみれば、その2                (同窓会記念誌原稿より)

T学園3回卒(1968年 昭和43年卒) 松川利行

 S中学という名前は小学校の先生に受験を勧められるまで知らなかったし、何処にあるのかは、試験日に母に連れられて行ってもらって、初めて東大寺境内にある事を知った程度の僕だが、僕は学園に対し不思議なめぐり合わせを感じている。

 S中学に入学したのは、1962年(昭和37年)4月のことである。次の年には高校併設と同時にT学園となったので、S中学最後の入学生ということになる。そして卒業はT学園の3回生ということになり、学園の歴史の中で最大の転換期を生徒としてかかわることになった。

 僕らが、高校1年になった時、中高6年の一貫体制は一応できあがった。この時点、1965年が、実質的な新生T学園の出発点になった。

 それまでは、中学校として10数年の蓄積はあったので、学校行事等はS時代をそのまま引き継いで来たに過ぎなかったが、中高6年の体制が出来上がったこの時から、それに相応しい伝統をつくろうということになった。

 まず1つは、「群声」の発行である。発行は生徒会だが、「群声」という名前から覗えるように、他校のような所謂生徒会誌の体裁はとらずに文芸誌的路線を敷いたのは、多分に当時顧問のI先生の影響が大きい。雑誌の名前は公募したのだが、良いものが集まらず、結局内輪の案で「群声」に決まったと記憶しているが、その名称の出所もI先生ではなかったかと思う。

 この「群声」には第2号の編集に携わった。当時も原稿は思うように集まらず、最後は、たった4人しかいなかった編集委員のH君、故T君などと共に、編集員自らが孤軍奮闘頑張ってページを埋め、学年末ギリギリようやく体裁を整え発行に漕ぎつけた。

 もう1つは、文化祭がある。

 S中学の頃は、文化祭というものは無く、それに対応するS時代の行事を強いてあげるならば、春の新入生歓迎会であった。木造時代の公会堂を1日借りて、クラス単位での出し物などをやっていた。

 6学年が揃ったこの年に、世間の高校並に我校でも文化祭をやろうということになった。

第1回は、教師生徒ともども誰も経験が無かったので、自ずとイメージは新入生歓迎会のようなものを思い浮かべていた。

 僕等は、伝統を作るには何事も最初が肝心ということで、即興性の多かった新入生歓迎会からの脱皮を図り、新しい高校に相応しいものにしようと意気込んだ。

 それで、小人数でもよいので本当にやる気にのあるものだけが集まり、他校の演劇部のような本格的なものをやろうということになった。

 次の問題は、男子校の宿命、女役のあるものは、誰かが女装せねばならず、そうすればどんなシリアスな劇でも喜劇になってしまうので、それは避けようということにした。

 それで選んだのが、小山内薫の名作「息子」だった。O君を監督に、キャストは、親父役に現同窓会副会長のN君、岡引役に現本職映画監督のT君、何故か主役の息子役は僕というキャストであった。他校の演劇部の公演を見にいったりして研究し、毎日夜の遅くまで徹底して練習をしたものである (今でも台詞の一部を覚えている)

 大変ありがたかったのは、当時、K高校改め、T学園高校定時制として同じ学び舎で学んでいた仲間(といっても定時制なので大人の方だが)に、大阪で本職の劇団員をやっているの方が居られたが、その人から、本格的な化粧の仕方、演技指導などを受けることができたことである。当時の文化祭では各学年から出したこの演劇がメインイベントであった。

 高2の時の第2回文化祭では、初代の文化祭実行委員長として文化祭の運営に深くかかわることになった。そこでの仕事は、文化祭の運営形態の大変革であった。

 第1回は、なんといってもこのような行事は我校では初めての経験なので、学校としてはまずはその「行事」をやってみること自体が最大目的であった。近隣の高校の文化祭を参考にして、11月の文化の日を中心に2日間かけてとりあえず開催された。

 その時の経験から、色々な問題点も分かったので、2回目は次のように大々的な見直し断行した。この時に、変更した事柄は36回を重ねた今日に至るまで概ね基本的には引き継がれてきているようである。

 その1、文化祭運営主体を文化委員を中心に組織した文化祭実行委員会が担う事とした。展示部門、演劇部門等々、部門ごとに責任者(原則的に高校2年)を配置し、実行委員長がそれを統括する。因みに、初代の実行委員には書紀にK君、会計にK君、フリーの実行委員にN君とT君、展示委員にはS君、演劇委員には一級下のM君、仮装委員にはK君、バザー委員にはO君、そして美化委員にはY君、そして実行委員長が僕という体制であった。

 その2、開催日を11月から9月に変更した。理由は、高3もそれなりに参加できること。

夏休みを準備に当てられること。そして、当初、演劇についでのイベントであった屋外での仮装行列が11月では寒くて困難であったことなどが主な理由である。

「文化の日」ではないこと、台風シーズンであることなどデメリットも考えられたが、皆をなんとか説得し、生徒会の決議も受けて職員会議の承認を得た。今では、殆どの学校が9月に文化祭を実施しているが、先見の明があったと密かに自負している。

 開催日程の1日増も考えたが、これは職員会議の理解が得られず、代わりに準備の日の夕方から前夜祭を企画し、合わせて、後夜祭も新たに設ける事とした。女子生徒のいない本校では定番のフォークダンスが出来ないので、前夜祭や後夜祭の企画をどうするか大変苦労したことを思い出す。

 その3、本格的な文化祭のパンフレットを作成したこと。当時は、大学祭などではパンフレットは作られていたが、高校では一枚印刷のプログラム程度であった。それを、大学祭のパンフレットを参考に、それに負けないくらいの本格的なものを作ろうということになった。 当時の文化祭の予算は総額10万円であったが、パンフレットの印刷には3万円ほどかかった。少ない予算から3万円も出すことはとても出来ないので、予算枠から外し広告費で賄うことにした。広告取りは学校出入りの業者さんや実行委員のコネ、あとは、夏休み中に東向商店街や餅飯殿商店街での飛びこみの依頼などで、何とか資金は集まった。しかし、パンフレットの編集、表紙デザインなど、結局僕一人の仕事となってしまったが。

 その4、文化祭に愛称とテーマをつけたこと。文化祭の愛称は公募をしたが、これもご多分に漏れず、良いものが集まらない。最後は、実行委員長すなわち僕の独断で「菁々祭」とした。

 これには、僕らの学年がS中最後の入学であったこともあり、校名変更で消えてしまった「菁々」の名を何処かに残しておきたい思いが働いたからである。

 ところが、当時、一級下の新生T学園中学初年度入学生にあたる学年(第4回生)から猛烈な反発を受けた。文化祭の名称のように、後々まで影響するようなものを、一時の実行委員会が決定するのはけしからんという疑義がでて、この名称を決めるにあったては、恒久的なものにするのではなく、後年見直しの可能性を残す事を付帯事項に付け加えられなんとか認められた経緯があった。それが、結局今まで続いているとは、当時それに深く関わった者としては感慨もひとしおである。

 菁々祭初めてのテーマは「若者の想像力と可能性」という、時代を反映した超真面目な

ものであった。このテーマを新しいパンフレットの最初に飾るために、当時学園長であった故上司海雲先生を、単身、本坊の寺務所に訪ねて墨書を依頼した。その時、初めて本坊に入ったが、和洋折衷の洒落た応接間に通されて待っていたときの緊張感は今でも忘れない。その時は、海雲先生が著名な書道家であることなど知る由もなかった。後日、何通りかの大きさの書を届けていただいたけれど、使用するもの以外は、今から思えば大変もったいない事だが、捨ててしまった。帰り際には、予期せぬことに、文化祭に対するご祝儀(当時のお金で5000円)まで頂いた。

 文化祭にまつわる番外編のエピソードとしては、それ以後長く恒例になっていた大壁画がこの第2回から始まったことである。これは、同級であった実行委員の一人の故T君が、校舎の3階からつるす大壁画を作りたいので予算をくれと突然言ってきたことに始まる。

 その発想が突拍子でデッカイ事などから、実行委員会では少々対応に苦慮、戸惑ったが、やってみようということにし予算を付けた。「大きい事は良いことだ」でその出来映えは予想以上に良く、文化祭の雰囲気作りに貢献した。新校舎に移転してからはつるす適当な場所が無く途絶えてしまったのは残念であった。今の学年を担任するようになってから、何とか復活できないかと思い、形を変えて、ベニヤ板28枚分の大作を図書館棟の壁面に描き続けて3年になるが、果たしてどこまで続くことか。

 このような大改革をした第2回文化祭についての顛末は、前述の「群声」2号に、今は故あって行方不明になっているH君が「特集文化祭を考える」として、35頁にもわたる大レポートに纏めてくれた。

 その後の僕とT学園との関わりは、十数年の会社勤めの後、縁があって1984年に母校の理科教師としてお世話になることで再開した。当時、現校地への移転計画が進んでいて、クラス増に伴う教員採用が有ったからである。赴任してから具体的な工事等が開始され2年後に新校舎に移転した。

 新校舎での初めての新1年生(40回生)6年間担任することになり、新校地での新しい伝統作りに、奇しくも今度は教師としてかかわることとなった。

 S中〜T学園にいたる50数年の歴史の中で、大きな節目といえば、創立期、高校設立に伴うT学園創立期、そして、ここ山陵町に拡大移転した頃、の3つをあげることができると思う。

 S中最後の入学で、新生T学園との繋ぎの世代である僕が、このうち2つに遭遇することになったが、この運命の悪戯に学園との不思議な因縁を感じている。

 

 

2000/07/29

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